




作家名 島道素石
作品名 句 「銀匙の ちりんと鳴りぬ あんこ鍋 素石□」
略歴 島道素石(しまみち そせき) 明治6年(1873)~?
俳人。大阪の生まれ。本名は勘四郎。正岡子規門。青木月斗らと大阪俳壇で活躍した。
俳誌『鶏』を主宰。また、小西来山の研究書『むしの声』(大5)の編者。
価格 23,000円
詳細 紙本揉紙表装
総丈 タテ197㎝ ヨコ25㎝
本紙 タテ122㎝ ヨコ22㎝
桐共箱
状態 少オレ、少シミアリ。
TEL.0743-56-3630
〒639-1116 奈良県大和郡山市伊豆七条町211-2
作家名 赤松連城
作品名 三行書
「乗大悲願船浮光明廣海至徳風静衆禍波転即破無明闇速到無量光明土
戊申抄冬為大里氏属 圓通連城□□」 『教行信証』行巻より
略歴 赤松連城(あかまつ れんじょう) 天保12年(1841)~大正8年(1919)
浄土真宗本願寺派の学僧。加賀金沢(石川)の生まれ。諱は連城。号は聴泉、榕陰、円通道人。諡
は円通院。文久3年(1863)周防徳山の徳応寺赤松真成の養子として入寺する。大洲鉄然、島地黙
雷らと宗門改革案を建議、西本願寺よりイギリス留学を命じられて渡欧。帰国後は西本願寺の教育
改革を唱え、学林に普通学科や学級制度を採用した。また、大教院分離運動を支持して、真宗4派
の分離を実現するとともに、興正寺の別派独立運動に際しても解決に尽力した。宗制、寺法の制定、
集会の開設など教団組織の近代化や護持会、大日本慈善会財団の創設、大学林総理、仏教大学学長、
執行長など宗門の要職を歴任した。同36年(1903)勧学、翌年西本願寺の安居で「観経定善義」を
講じる。著書には『英文真宗本義』『仏教史』などがある。
価格 35,000円
詳細 絖本絹装丸表具 大里氏への為書アリ。
総丈 タテ178㎝ ヨコ55.5㎝
本紙 タテ120㎝ ヨコ42.5㎝
状態 本紙少シミ、巻留シミ、木軸先一部欠損アリ。
作家名 黒田綾山
作品名 『鍾馗図』
略歴 黒田綾山(くろだ りょうざん) 宝暦5年(1755)~文化11年(1814)
文人画家。讃岐(香川)の生まれ。名は良、良甫。字は亮輔、忠良。号は綾山、起雲道人、南海
山人。幼少の頃より書や画を好み、福原五岳に画を学び、また同門の林閬苑と画友となる。壮年
諸国を遊歴し、天明5年(1785)頃備中(岡山)玉島に居宅起雲窟を構え終生住した。綾山は画
のほかに詩文や和歌を能くし、菅茶山、頼春水、皆川淇園のほか多くの文人と交流した。門弟に
白神皞々、岡本豊彦、小野雲鵬らがいる。
価格 250,000円
詳細 乙丑夏とあるところから1805年51才の作品。
絹本着彩絹装丸表具
総丈 タテ191.5㎝ ヨコ44.5㎝
本紙 タテ102.5㎝ ヨコ30㎝
桐合箱
状態 少オレ、少シミアリ。
作家名 中井履軒
作品名 『墨竹自画賛』
賛「読易夏日長 琅玕擬瀟湘 山風吹疎雨 共愛五月涼 履軒幽人戯写□□」
略歴 中井履軒(なかい りけん) 享保17年(1732)~文化14年(1817)
江戸時代中期の儒学者。大坂の生まれ。名は積徳。字は処寂。通称は徳二。号は履軒、履軒幽人、
天楽桜主人など。中井甃庵の第二子。竹山の弟。五井蘭洲に宋学を学び、父の甃庵も程朱の学を宗
としたが、履軒は広く古書を読み、折衷を主とした。竹山の死後、懐徳堂を監して弟子の教育に従
った。著書には『七経雕題五十六巻』『七経逢原三十二巻』『老子雕題』『中庸天楽桜定本一巻』
のほか多数ある。
価格 200,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ204㎝ ヨコ45.5㎝
本紙 タテ137.5㎝ ヨコ32㎝
桐合箱
状態 オレアリ。
作家名 名和又八郎
作品名 一行書 「左準縄右規矩」 『孟子』離婁上の一節より
略歴 名和又八郎(なわ またはちろう) 文久3年(1864)~昭和3年(1928)
海軍軍人、海軍大将。福井の生まれ。旧姓は武久。号は若舟。名和荘山の養子となる。明治42年
(1909)呉鎮守府参謀長、同45年(1912)第3艦隊司令長官、大正3年(1914)教育本部長、同4
年(1915)第2艦隊司令長官、舞鶴鎮守府長官、同6年(1917)横須賀鎮守府長官、同9年(1920)
軍事参議官などを歴任した。また、出雲、厳島、生駒艦長を務める。日露戦争時には人事局主席
局員として海軍人事を司っていた。
価格 20,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ191㎝ ヨコ49㎝
本紙 タテ112㎝ ヨコ34㎝
状態 少オレアリ。為書アリ。
作家名 藤本浄本
作品名 一行書 「親切細心」
略歴 藤本浄本(ふじもと じょうほん) 明治12年(1879)~昭和46年(1971)
浄土宗の僧。山口の生まれ。号は信蓮社寂誉仰阿。字は専念。明治21年(1888)山口県下田神宮寺
神山得定のもとで得度し、幼名市右衛門を浄本と改めた。同40年(1907)神宮寺に晋董。大正3年
(1914)屋代西蓮寺に転董、同8年(1919)山崎弁栄を招き初老(42歳)記念法会を開いたのが縁で
光明主義に傾倒し、昭和29年(1954)には全国光明連合本部より上首に推任された。総本山知恩院
伝宗伝戒道場勧誡師を勤め、同39年(1964)浄土両宗の合併にともない、改めて正僧正・正司教・
勧学に叙せられた。著書に『阿弥陀仏の信仰』『一枚起請文講話』などがある。
価格 70,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ203㎝ ヨコ46㎝
本紙 タテ133㎝ ヨコ33㎝
状態 表具少虫穴、本紙シミ、オレ、巻留虫ナメアリ。
作家名 黒田清綱
作品名 和歌
「船眺望 古起出て 遠つあふみの 灘ゆけは 雲の波間尓 婦しの山見ゆ 正三位清綱」
略歴 黒田清綱(くろだ きよつな) 天保元年(1830)~大正6年(1917)
幕末・維新期の鹿児島藩志士、明治期の政治家、歌人。正二位勲一等子爵。明治維新では国事に奔
走し、慶応2年(1866)三条実美ら五卿を筑前大宰府に警固し、その活躍によって名を挙げた。明
治元年(1868)山陰道鎮撫総督参謀として西園寺公望総督に従い、翌年には鹿児島藩藩政改革で参
政に就任し、藩政刷新に努める。同3年(1870)中央政府に出仕し、弾正少弼、同4年(1871)東京
府大参事、同5年(1872)教部少輔となり、一時文部少輔を兼任した。同8年(1875)元老院議官と
なり、同20年(1887)子爵に叙せられる。その後、貴族院議員や枢密顧問官を歴任した。清綱は早
くから歌道を志し、八田知紀について学んだ。また、高崎正風の没後は明治・大正両天皇の和歌の
指導にあたり、滝園社を興して門弟の育成指導に力を入れた。嗣子に洋画家の黒田清輝がいる。
価格 35,000円
詳細 紙本絹三段表装、料紙墨流し金砂子散し。
総丈 タテ126㎝ ヨコ57.5㎝
本紙 タテ35㎝ ヨコ46㎝
状態 少オレアリ。
作家名 清水谷恭順
作品名 横幅 「無我」
略歴 清水谷恭順(しみずだに きょうじゅん) 明治24年(1891)~昭和54年(1979)
天台宗、聖観音宗の僧。群馬の生まれ。聖観音宗管長、浅草寺貫主。15歳のとき、浅草寺一山の善
竜院清水谷慶順の養子となり、得度した。20歳で善竜院の住職となる。天台宗大学卒業後は、大正
4年(1915)天台宗大学教授、同15年(1926)大正大学教授に就任する。昭和10年(1935)宮内省
職員養成所講師、同12年(1937)比叡山専修院教授、翌年比叡山中学校校長を歴任した。その後、
同17年(1942)善光寺大勧進貫主、同27年(1952)浅草寺貫主となり、大衆信仰の中心である浅草
寺の復興に尽力し、堂塔を再建した。『観音経講話』のラジオ放送や全国巡教を行い、大衆の仏教
理解と布教活動に活躍した。昭和35年(1960)「天台密教の成立に関する研究」で文学博士号を得
る。翌年全日本仏教会副会長、同41年(1966)文部省宗教法人審議会委員を歴任、また教育功労賞、
仏教伝道文化賞を受けた。著書には『天台の密教』『般若心経講話』『放送観音経講話』のほか多
数ある。
価格 50,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ127.5㎝ ヨコ67.5㎝
本紙 タテ27㎝ ヨコ57㎝
状態 表具少シミアリ。
作家名 栴崖奕堂
作品名 二行書 「萬歳山頭松不老千秋㵎底水長流 奕堂布衲□□」
略歴 栴崖奕堂(せんがい えきどう) 文化2年(1805)~明治12年(1879)
曹洞宗の僧。尾張名古屋(愛知)の生まれ。總持寺独住第一世。字は奕堂、法諱は栴崖、号は三界
無頼、無似子。俗姓は平野氏、のち諸嶽と改める。尾張聖應寺の雪堂暁林に就いて得度し、のち尾
張黄龍寺の道契証応に仕えた。天保12年(1841)三河香積寺の風外本高を訪ね、印可を受ける。弘
化4年(1847)山城山科大宅寺の住職となり、その後、師席聖應寺、前橋龍海院、加賀天徳院を歴
住した。明治元年(1868)永平・總持の二寺の抗争においてその調和に尽力し、大衆の推挙により
總持寺独住第一世となった。また、弘濟慈徳禅師の勅号ならびに紫衣を賜り、同5年(1872)政府
から大正教に補せられた。著書に『懶眠余稿』がある。
価格 45,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ204.5㎝ ヨコ34㎝
本紙 タテ136㎝ ヨコ29.5㎝
状態 少シミ、少オレアリ。
作家名 利井鮮妙
作品名 ≪複製品≫ 一行書 「聞思莫遅慮」
略歴 利井鮮妙(かがい せんみょう) 天保6年(1835)~大正3年(1914)
浄土真宗本願寺派の学僧。摂津東五百住(大阪)の生まれ。諱は顕好、鮮妙。号は如々、赤愚、雙
非坊。諡は専精院。兄は本願寺派の執行長を務めた利井明朗。藤沢東璟に漢籍を、行照と僧亮に宗
学を学び、のち松島善譲の指導を受ける。明治4年(1871)常見寺の住職となり、同7、8年(1874、
75)頃同寺内に私塾専精舎を開設し、同15年(1882)兄の明朗とともに行信教校を創設、後進の指
導に従事した。同29年(1896)勧学となり、同33年(1900)西本願寺の安居で『愚禿鈔』、同41年
(1908)安居では『安楽集』を講じた。
著書に『宗要論題結択篇』十巻、『愚禿鈔講録』二巻、『行信乙丑篇』のほか多数ある。
価格 40,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ190.5㎝ ヨコ46㎝
本紙 タテ131.5㎝ ヨコ31㎝
状態 オレアリ。
作家名 西沢笛畝
作品名 『土偶鶏』
略歴 西沢笛畝(にしざわ てきほ) 明治22年(1889)~昭和40年(1965)
日本画家、人形玩具研究家。東京の生まれ。旧姓は石川、名は昂一。別号に木槿庵、比奈舎、不退
居等がある。和田英作の媒酌で西沢家に入婿し、西沢姓と改めた。24歳のとき荒木寛畝の画塾に入
門し、寛畝なき後は、十畝に師事した。大正4年(1915)第9回文展で初入選し、以後も入選をつづ
け、昭和9年(1934)には第15回帝展の審査員を務める。また人形蒐集研究家としても知られてお
り、日本国内の人形玩具類を研究し、人形研究の権威として活躍した。財団法人人形文化の会、日
本工芸会の理事長、文化財保護委員会の専門委員を歴任する。昭和34年(1959)紫綬褒章を受けた。
著書には『雛百種』『人形集成』『うないの友』『日本郷土玩具事典』のほか多数ある。
価格 55,000円
詳細 紙本絹装三段表具
総丈 タテ195.5㎝ ヨコ35㎝
本紙 タテ24.5㎝ ヨコ20.5㎝
桐共箱
状態 シミアリ。
作家名 田代尚光
作品名 一行書 「竹有上下節」
略歴 田代尚光(たしろ しょうこう) 明治36年(1903)~昭和63(1988)
融通念仏宗の学僧。大念仏寺六十二世。大阪の生まれ。俗名は山野定戒。号は明珠院、不睡庵。
11歳で河内極楽寺の清原章山について得度、章山の没後、堺林昌寺の森田霊戒に師事する。田代
虎戒の養子となり、26歳のとき尚光と改名した。昭和13年(1938)林昌寺住持、同43年(1968)
宗務総長、同54年(1979)大念仏寺法主となる。「融通念仏縁起」の研究家としても知られる。
著書には『増訂融通念仏縁起之研究』『良忍上人と大念仏寺』がある。
価格 50,000円
詳細 紙本絹装三段表具
総丈 タテ195㎝ ヨコ44㎝
本紙 タテ112㎝ ヨコ32㎝
桐共箱
状態 少オレ、シミアリ。
作家名 林霊法
作品名 名号 「南無阿弥陁佛」
略歴 林霊法(はやし れいほう) 明治39年(1906)~平成12年(2000)
浄土宗の僧。愛知の生まれ。号は高蓮社徳誉道阿、道号は正学。父は養林寺の林法純。東京帝国大
学文学部印度哲学科を卒業後は仏教法制経済研究所主事となる。昭和12年(1937)妹尾義郎を盟主
とする新興仏教青年同盟の書記長を務めていたが、この同盟は反戦運動を核とした仏教精神による
社会改造を目的としていたため、官憲により1年3ケ月の拘束を受けた。同13年(1938)養林寺に晋
董、戦後は椎尾弁匡とともに共生運動の展開に尽力する。その後、東海学園高等学校校長、東海学
園女子高等学校校長、東海学園女子短期大学副学長・学長を歴任した。昭和44年(1969)大本山百
万遍知恩寺第七十二世法主となる。知恩寺在山中、百万遍知恩寺仏跡巡拝団を結成し、インド・中
国など平和祈願旅行を企画、団長を務めた。また、明生幼稚園園長、愛知県私学協会副会長、東海
インド学仏教学会会長などを歴任する。晩年は病のため養林寺で静養につとめた。世寿九十三歳。
著書に『法然上人を憶う』『現代思想と仏教の立場』『わが復活の曙光』のほか多数ある。
価格 350,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ196.5㎝ ヨコ47㎝
本紙 タテ130㎝ ヨコ34.5㎝
桐合箱
状態 少シミ、少オレアリ。
作家名 三枝真洞
作品名 『浮嵐暖翠図』
略歴 三枝真洞(さえぐさ しんどう) 天保6年(1835)~慶応4年(1868)
浄土真宗の僧、勤王活動家。大和国(奈良)添下郡椎木の浄蓮寺に生まれる。本名は蓊、幼名は芳
丸、また芳満。別号に青荷、青山樵など。僧名を浄尚、後還俗して青木精一郎と変名した。漢学を
今村文吾に、国学・和歌を伴林光平に、画を藤本鉄石に学んだ。また、本願寺学寮に入り内典・外
典を究める。勤王の志を抱き、文久3年(1863)伴林、藤本に従って天誅組の変に市川精一郎とし
て参加したが、敗戦し因幡に逃れた。慶応4年(1868)林田衛太郎貞堅(朱雀操)と共に京都でイ
ギリス公使パークスを襲撃するも失敗に終わり、粟田口にて梟首された。年三十四才。詩と画を善
くし、真洞の画に光平が題詩したものも遺っている。辞世の句「もののふの 捨てるいのちは たれ
ゆえに たかき名を得て 君にささげむ」『殉難全集』から。
価格 800,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ190㎝ ヨコ52.5㎝
本紙 タテ101㎝ ヨコ38㎝
桐合箱
状態 本紙少ヨゴレ、少欠損アリ。
作家名 福田行誡
作品名 一行書 「心不顛倒」
略歴 福田行誡(ふくだ ぎょうかい) 文化3年(1806)~明治21年(1888)
浄土宗の僧。武蔵の生まれ。号は建蓮社立誉晋阿、字は善奉。諱は大堂のち行誡と改める。
知恩院七十六世、増上寺七十世、浄土宗管長。小石川伝通院伴頭寛淳につき得度。立誉玄順に仕えて
宗余乗をうけ、経史を東条一堂、和歌を一蓮居士、比叡山の慧澄に台律諸部・天台・倶舎を学んだ。
著書には『略論安楽浄土義玄譚私説』『徳本行者伝』『須弥山略記』『釈迦譜要略』等がある。
価格 85,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ172㎝ ヨコ42.5㎝
本紙 タテ124.5㎝ ヨコ29.5㎝
状態 本紙少オレ、表具ヨゴレ、少虫穴アリ。
作家名 大拙承演
作品名 『骸骨画賛図』
賛「蓬莱山もよそならす きのふ見し人はや見え給ハぬそ あとにもさける朝只の
花よりはやく散るしら露か 大拙□」
略歴 大拙承演(だいせつ じょうえん) 寛政9年(1797)~安政2年(1855)
臨済宗の僧。若狭大島(福井)の生まれ。諱は承演。号は大拙。室号は無為室。東源庵実堂隆公の
もとで出家する。18歳のとき、本源寺(岡山)に掛錫して詩文を学び、又、宝福寺(岡山)の妙峰
に従って経論を学び、曹源寺(岡山)の太元に参じ、服事した。太元の命を受けて卓洲に参じ、ま
た相国寺(京都)の拙庵の請に応じて心華院に住した。54歳のとき相国寺開山国師五百五十年遠諱
を修し、『普明録』を提唱し已墜の宗風を興し、円覚寺(神奈川)の東海、南禅寺(京都)の巨海、
曹源寺の儀山、見性寺(徳島)の大震のほか五百余人が来会した。大光明寺(相国寺)を弟子の独
園承珠のみが嗣ぎ、59歳で遷化した。著書に『無為和尚語録』一冊がある。
価格 160,000円
詳細 紙本揉紙表装
総丈 タテ118㎝ ヨコ51㎝
本紙 タテ29㎝ ヨコ46㎝
状態 オレ、イタミアリ。
作家名 小泉檀山
作品名 『雲上高士図』
略歴 小泉斐(こいずみ あやる) 明和7年(1770)~嘉永7年(1854)
江戸時代後期の画人。下野国(栃木)の生まれ。名は斐。字は子章。号は檀山、青鸞、非文道人、
檀森斎など。幼名は勝、のち光定。父は芳賀郡益子町鹿島神社の祠官木村市正。幼少の頃より画を
好み、高田敬輔の門人島崎雲圃に学ぶ。那須郡黒羽町温泉神社の小泉光秀の養子となり、俗姓を小
泉氏と改めた。また、黒羽藩大関増業より黒羽城北側の鎮国社の祠官を任ぜられる。水戸の立原翠
軒から儒学を修め、その子杏所に画を教えた。檀山は人物・山水・仏画をよくし、特に鮎描きの名
手として知らて、鮎図に猫が飛びついたとも言われている。また詩歌雅楽にも興じた。著書に『檀
森斎石譜』『富岳写真』などがある。
価格 75,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ171㎝ ヨコ37.5㎝
本紙 タテ96.5㎝ ヨコ27.5㎝
状態 表具虫穴、本紙オレアリ。
作家名 中原鄧州
作品名 一行書 「百事如意」
略歴 中原鄧州(なかはら とうしゅう) 天保10年(1839)~大正14年(1925)
臨済宗の僧。肥前(佐賀)の生まれ。諱は全忠。字は鄧州。号は白崖窟。幼名は慶助。俗姓は塩田
氏、のち中原氏。常に南天の棒を携えていたことから南天棒として広く知られる。7歳のとき母を
喪い、11歳にして平戸(長崎)雄香寺麗宗のもとで出家する。18歳で遊方の旅に出て、八幡(京都)
円福寺の万松庵石応宗珉、久留米(福岡)梅林寺の羅山元磨らに師事し、29歳のとき羅山の印可を
得た。31歳で初めて周防(山口)徳山の大成寺に住し、ついで松島(宮城)瑞巌寺に入り、明治35
年(1902)兵庫の海清寺に住した。以降海清寺を活動の中心とし大いに禅風を挙揚した。南天棒に
影響を受けた者は数多く、山岡鉄舟、乃木希典、児玉源太郎らも帰依した。接化の弟子に曹洞宗飯
田欓隠がいる。『提唱碧巖集』『般若心経毒語注』『提唱臨済録』等の講義、語録が多い。
価格 45,000円
詳細 紙本揉紙表装
総丈 タテ183.5㎝ ヨコ36㎝
本紙 タテ120㎝ ヨコ33㎝
状態 シミ、オレアリ。
作家名 田中智学
作品名 一行書 「天壌無窮」
略歴 田中智学(たなか ちがく) 文久元年(1861)~昭和14年(1939)
日蓮宗系の在家仏教運動者。江戸の生まれ。名は巴之助。号は巴雷。幼くして父母を喪い、一之江
妙覚寺智境院河瀬日進のもとで得度し、智学と改称した。明治4年(1871)飯高檀林に入る。その
後、日蓮宗大教院に進み新居日薩の薫陶を受けるも、肺炎に罹り退学する。同12年(1879)亡父の
志を継ぎ、離宗還俗した。翌年横浜で蓮華会を結成、同18年(1885)東京に移り立正安国会を設立
した。以降公開講演を開き、機関誌『妙宗』や『日蓮主義』、月刊誌『毒皷』、日刊『天業民報』
など多数の刊行を行った。明治35年(1902)日蓮主義組織宗学「本化妙宗式目」を大成する。大正
3年(1914)国柱会を設立、同12年(1923)立憲養正会を結成する。昭和3年(1928)国体読本『日
本とはいかなる国ぞ』、同7年(1932)国紙『大日本』を刊行する。同10年(1935)『日本国体新
講座』の刊行を開始した。また、同年国体運動のため満州国に渡り、満州国皇帝に「王道の本義十
則」の講演を行った。著書には『仏教僧侶肉妻論』『妙宗式目講義録』『大国聖日蓮上人』のほか
多数ある。
保坂智宙(ほさか ちちゅう) 慶応2年(1866)~昭和15年(1940)
日蓮宗系の在家仏教運動者、国柱会。江戸の生まれ。本名は麗山。号は建寅。7歳のとき日蓮宗貫名
日温の門に入り、日蓮宗大教院に学ぶ。大教院在学中、田中智学の「龍口断刀論」を聴講して入門
する。明治19年(1886)智学の講演『仏教夫婦論』を筆録し、以来智学の命を奉じて正法正義の弘
通に精進する。また、立正安国会会務幹事を務め、本化宗学研究大会では科外講師に任ぜられた。
国柱会常任統務の要職についてからは明治会講師として護法護国の運動に献身した。著書には『日
蓮聖人の婦人訓』『聖典「兄弟鈔」解説』『本化妙宗・信行読本』がある。
価格 150,000円
詳細 国柱会保坂智宙による箱書あり。
紙本絹装丸表具
総丈 タテ195㎝ ヨコ46㎝
本紙 タテ124.5㎝ ヨコ32.5㎝
桐合箱
状態 少シミ、少オレ。箱一部欠損。
作家名 森田峠
作品名 句幅 「金魚田のありとも見えず町繁華 峠□」
略歴 森田峠(もりた とうげ) 大正13年(1924)~平成25年(2013)
俳人。大阪の生まれ。本名は康秀。國學院大學国文科卒。昭和17年(1942)俳句を初め、國學院大
學在学中は俳句研究会に参加した。同19年(1944)岡安迷子に従って小諸にいる高浜虚子のもとを
訪れる。またこの時に虚子から峠の俳号を貰う。同年虚子選『ホトトギス』に初入選した。虚子の
兄である池内たけしや皆吉爽雨にも俳句を学び、同26年(1951)阿波野青畝に師事する。青畝主宰
の『かつらぎ』に加入後は長年編集長を務めた。平成2年(1990)には青畝より『かつらぎ』主宰
を継承し、また俳人協会顧問も務める。峠は師である青畝の句風を学び、平明温雅なうちに写生の
道を歩んだ。昭和61年(1986)句集『逆瀬川』で俳人協会賞、平成16年(2003)句集『葛の崖』
で詩歌文学館賞を受賞。句集には『避暑散歩』『雪紋』『牧開』、俳書には『青畝句集「万両」全
釈』『三冊子を読む』などがある。
価格 80,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ181㎝ ヨコ45.5㎝
本紙 タテ122㎝ ヨコ33㎝
桐共箱
状態 良好。
作家名 不詳
作品名 『加藤清正肖像画』
略歴 加藤清正(かとう きよまさ) 永禄5年(1562)~慶長16年(1611)
安土桃山・江戸時代前期の武将。尾張(愛知)の生まれ。幼名は夜叉丸、元服後は虎之助清正と称
した。幼少より秀吉に仕え、天正8年(1580)播磨国神東郡で百二十石を充行われる。その後、因
幡国鳥取城攻め、備中冠山城攻めなどで功績をあげたが、特に賤ヶ岳の戦での功績が大きく、七本
槍の一人として数えられる。これらの功績により近江・河内・山城国に三千石が充行われた。その
後、小牧・長久手の戦いに活躍し、従五位下主計頭に叙任する。朝鮮の役では1万の兵を率いて、
釜山、京城、会寧、兀良哈国まで侵攻した。虎狩りのエピソードはこの頃のものである。また、熊
本城の築城、新田開発・河川工事など建築や土木においても手腕を振るった。晩年は文芸や茶道を
好み、服部道巴と交友を深めた。清正は日蓮宗の熱心な信者としても知られており、遺骸は熊本の
本妙寺に葬られ、現在も日蓮宗信者の参詣のまととなっている。法名は浄池院殿永運日乗大居士。
価格 120,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ156.5㎝ ヨコ47.5㎝
本紙 タテ96㎝ ヨコ41㎝
状態 ウブな状態のまま。本紙表具に傷、汚れあり。
作家名 森田峠
作品名 句幅 「風船を持つ児軽々抱かれけり 峠□」
略歴 森田峠(もりた とうげ) 大正13年(1924)~平成25年(2013)
俳人。大阪の生まれ。本名は康秀。國學院大學国文科卒。昭和17年(1942)俳句を初め、國學院大
學在学中は俳句研究会に参加した。同19年(1944)岡安迷子に従って小諸にいる高浜虚子のもとを
訪れる。またこの時に虚子から峠の俳号を貰う。同年虚子選『ホトトギス』に初入選した。虚子の
兄である池内たけしや皆吉爽雨にも俳句を学び、同26年(1951)阿波野青畝に師事する。青畝主宰
の『かつらぎ』に加入後は長年編集長を務めた。平成2年(1990)には青畝より『かつらぎ』主宰
を継承し、また俳人協会顧問も務める。峠は師である青畝の句風を学び、平明温雅なうちに写生の
道を歩んだ。昭和61年(1986)句集『逆瀬川』で俳人協会賞、平成16年(2003)句集『葛の崖』
で詩歌文学館賞を受賞。句集には『避暑散歩』『雪紋』『牧開』、俳書には『青畝句集「万両」全
釈』『三冊子を読む』などがある。
価格 18,000円
詳細 紙本絹装三段表具 料紙金箔散らし
総丈 タテ123㎝ ヨコ50㎝
本紙 タテ33㎝ ヨコ47㎝
桐共箱
状態 良好。
作家名 魯山玄璠
作品名 漢詩七絶
「海辺眺望 群船帯霽艤長汀 雲浪軽飜萬頃溟 帆腹飽風迫飛鳥 天開一幅淡丹青 壬寅孟夏
南禅魯山老衲 題書□□」
略歴 魯山玄璠(ろざん げんはん) 延宝4年(1676)~寛延4年(1751)
江戸中期の臨済宗の僧。江戸の生まれ。姓は前田。十五才で天竜寺の文礼周郁につき得度、翌年
円光寺の天岩祖啓の許に移り、円光寺五世となる。その後、南禅寺(二百九十四世)に移り住む。
画に秀で、狩野栄川院・円山応挙ら多くの画人と交流があった。
この作品は壬寅とあるところから、享保7年(1722)の夏、魯山四十七才の琵琶湖での作品であろ
うか。
価格 120,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ106㎝ ヨコ54.5㎝
本紙 タテ29.5㎝ ヨコ51.5㎝
状態 表具少虫穴、ヨゴレ、シミアリ。
作家名 平岡定海
作品名 一行書 「道々非常道」 『老子道徳経』より
略歴 平岡定海(ひらおか じょうかい) 大正12年(1923)~平成23年(2011)
華厳宗の僧侶で歴史学者。東大寺第二一三世別当。奈良の生まれ。昭和10年(1935)得度。
同24年(1949)京都大学文学部史学科卒業。同30年(1955)京都大学大学院修了。同35年(1960)
文学博士。昭和29年(1954)種智院大学講師、同32年(1957)助教授。同41年(1966)大手前女子
大学教授。東大寺上之坊住職、東大寺執事長、華厳宗管長、東大寺別当を歴任した。著書には『東大
寺宗性上人の研究並史料』『東大寺の歴史』『大仏勧進ものがたり』など多数ある。
価格 50,000円
詳細 紙本絹装丸表具 軸先陶器
総丈 タテ200.5㎝ ヨコ37㎝
本紙 タテ139.5㎝ ヨコ33㎝
桐共箱
状態 少シミアリ。
作家名 高楠順次郎
作品名 一行書
「一花生五葉結果自然成 八葉峰中 雪頂順外子 押花」
菩提達磨撰『少室六門集』より
略歴 高楠順次郎(たかくす じゅんじろう) 慶応2年(1866)~昭和20年(1945)
大正・昭和期の仏教学者。広島の生まれ。幼名は梅太郎。号は篝村・雪頂。諡は宏学院釈順成。学生
時代は小林洵を名乗る。神戸の高楠家の養嗣子となる。ヨーロッパ留学中にオックスフォード大学の
マックス・ミュラーに師事、インド学、梵語学を学んだ。『大正新脩大蔵経』『国訳南伝大蔵経』の
出版や、『大日本仏教全書』の監修などに活躍、また仏教主義教育に傾注し武蔵野女子学院を設立、
東洋大学学長を務めた。昭和19年(1944)文化勲章受賞。
価格 80,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ201㎝ ヨコ45.5㎝
本紙 タテ135.5㎝ ヨコ31㎝
状態 少シミアリ。
作家名 大鹿愍成
作品名 二行書 「三更月照幽窓外 松竹青々碧欲流 黒谷深誉□□」 『禅林句集』より
略歴 大鹿愍成(おおしか みんじょう) 安政4年(1857)~大正14年(1925)
仏教学者、浄土宗の僧。尾張(愛知)の生まれ。号は広蓮社深誉心阿。字は無涯底。金戒光明寺六
二世。隨念寺加藤亮愍のもとで得度し、名を愍成と改めた。また、増上寺学寮に入り、石井大宣か
ら宗戒両脈を相承した。泉涌寺佐伯旭雅のもとでは俱舎・唯識を学び、長谷寺の林常坊快道につい
て唯識を練り、また仁和寺の楠玉諦に従って華厳を究める。特に唯識・因明に精通し、唯識の権威
と讃えられた。明治18年(1885)師籍隨念寺を嗣ぐも、翌年の浄土宗制により浄土宗学本校の教授
に就任する。同31年(1898)浄土宗専門学院の創立時には唯識部教授として赴任し、傍ら比較宗乗
を講じ、同38年(1905)宗教大学教授、同44年(1911)宗教大学学長となった。明治39年(1906)
勧学、大正4年(1915)正僧正に叙せられる。同7年(1918)黒谷金戒光明寺六二世の住職となる。
その後は、天台宗西部大学や京都帝国大学で唯識・因明を講じた。愍成はその学徳を慕われ多くの
者が訪れ、また、書画を善くした。著書に『成唯識論述記』二巻、『唯識論目志留志』『因明学大
意』『選択集聴講記』の各一巻がある。
価格 60,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ197.5㎝ ヨコ44㎝
本紙 タテ126㎝ ヨコ31㎝
桐合箱
状態 少シミ、少オレアリ。
作家名 小野蘭山
作品名 二行書 「惟本草一家人命所系凡学之者務在識真 蘭山書□□」
略歴 小野蘭山(おの らんざん) 享保14年(1729)~文化7年(1810)
本草学者。京都の生まれ。名は職博又は希博。字は以文。号は蘭山、朽匏子。通称は喜内、道敬。
松岡玄達に本草学を学び、宝暦3年(1753)京都で私塾を開き、本草学を講じ、本草研究に注力し
た。寛政11年(1799)江戸に招かれ、医学館で本草学を講じた。享和元年(1810)から採薬のた
め各地を巡回し、その都度「採薬記」を作成した。蘭山の口述を孫の職孝がまとめ『本草綱目啓
蒙』四十八巻として文化3年(1806)刊行した。本書は図を欠くが江戸時代最大の博物誌で、方言
辞典ともいうべきであった。島田充房との共著『花彙』八巻八冊はフランス人医師サバチェにより
仏訳され、明治6年(1873)パリで出版された。著書には『蘭山先生十品考』一巻一冊、『飲膳摘
要』一巻一冊、『広参説』一巻一冊のほか講義録など多数ある。
この二行書の一文は、小野蘭山が七十歳のとき、宋・鄭樵『通志・昆虫草木略』の序文から文章を
取り、揮毫して門人に与えたと伝えられている。
価格 120,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ198㎝ ヨコ40㎝
本紙 タテ140㎝ ヨコ29㎝
状態 美品。表具少虫穴アリ。
作家名 柳沢保興
作品名 千字文四字句 「天地玄黄」
略歴 柳沢保興(やなぎさわ やすおき) 文化12年(1815)~嘉永元年(1848)
大和郡山藩十五万千二百石柳沢家第五代当主。大和郡山(奈良)の生まれ。幼名は鏐之介。号は子
山。天保元年(1830)第十一代将軍家斉に謁見する。同年元服、従五位下造酒正に任ぜられた。ま
た、同9年(1838)父保泰の死により家督を相続し、造酒正を改め、甲斐守となる。同11年(1840)
光格天皇の葬儀を奉護して泉涌寺に35日間宿衛する。弘化2年(1845)従四位に叙せられ、嘉永元
年(1848)江戸幸橋の邸で死去、34歳。
箱書に「四字句幅 柳沢保興侯之筆尚山逸人書」とあるが、この見事な筆跡は幕末の柳沢藩の儒官
であった奥村邦基の書の可能性が残されている。文久3年(1863)8月の天誅組騒乱の折、郡山藩は
邦基の揮毫の征旗を押し立てて出動した。その筆跡の見事さに他藩の兵士たちが褒め称えたと伝え
られる人物である。
価格 850,000円
詳細 紙本絹装三段表具
総丈 タテ172.5㎝ ヨコ38㎝
本紙 タテ98.5㎝ ヨコ28㎝
桐合箱
状態 オレアリ。
作家名 渋谷隆教
作品名 一行書 「信順二尊之意」 『教行信証』より
略歴 渋谷隆教(しぶたに りゅうきょう) 明治18年(1885)~昭和37年(1962)
真宗仏光寺派の僧。仏光寺二十八世。京都の生まれ。諱は隆教。法名は真空。諡は快楽音院。父
は仏光寺二十六世の渋谷家教。4歳で家督を相続し、明治29年(1896)男爵に叙せられる。同31
年(1898)得度。同38年(1905)従五位に叙せられ、仏光寺二十八世を継職し、真宗仏光寺派管
長となった。真宗仏光寺派青年会や私立真宗学院を設立し、昭和5年(1930)朝鮮開教、宗報を発
刊する。同13年(1938)真宗仏光寺派宗制を発布、同22年(1947)新宗制に基づき真宗仏光寺派
宗主及び住職となった。翌年法嗣有教に法灯を譲る。在職42年の間、関東大震災や太平洋戦争など
の動乱のなかで仏光寺歴代法事、各地方末寺の巡教など、仏光寺教団の維持・発展に尽力した。
価格 120,000円
詳細 絹本絹装三段表具
総丈 タテ194.5㎝ ヨコ54.5㎝
本紙 タテ138㎝ ヨコ39.5㎝
桐合箱
状態 シミアリ。
作家名 出口王仁三郎
作品名 『墨竹図画賛』
賛「緑蔭青子浄無基 昭和三春 王仁□」
略歴 出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう) 明治4年(1871)~昭和23年(1948)
宗教家。京都の生まれ。旧名は上田喜三郎。岡田惟平に古事記・日本書紀の国学的解釈と和歌を学
ぶ。明治31年(1898)霊山高熊山で修行中に自身の霊能力を自覚する。同年静岡県清水の稲荷講社
本部で、総長長沢雄楯から行法を学んだ。帰郷後は皇道霊学会を設立し布教活動を開始した。この
頃、大本開祖出口なおを訪ね金明霊学会を設立する。また、なおの五女すみと結婚、なおの「筆先」
により王仁三郎と改名した。教団名を大日本修斎会と改め、教義を体系化し活発な布教活動を行う。
積極的な社会批判や救済の呼びかけは大きな反響を呼び、実業家、軍人、知識人の入信が相次いだ。
大正5年(1916)皇道大本と改称。王仁三郎は教団のなかで自身を瑞の霊・変性女子とし、厳の霊・
変性男子の開祖出口なおと対等の聖聖であるとした。大本教はその影響力から政府に二度の弾圧を
受け、多くの信者が教団を去った。王仁三郎は教団の再興を図り、エスペラントの採用など開かれ
た教団への体質改善に努め、教義面でも世直し的主張を後退させ、新教典『霊界物語』全81巻の述
作を精力的に進める。その後も人類愛善会や昭和神聖会を設立した。晩年は作陶に情熱を注ぎ、耀
盌3600点余を作った。昭和21年(1946)教団を愛善会と改称する。王仁三郎は10万首近い和歌を詠
み、書画、陶芸でも数多くの作品を残した。著作には『出口王仁三郎全集』全8巻、『出口王仁三
郎著作集』全5巻など多数ある。
価格 75,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ189㎝ ヨコ46㎝
本紙 タテ134㎝ ヨコ33.5㎝
桐合箱
状態 少シミ、オレアリ。
作家名 高畠式部
作品名 『墨竹図画賛』
賛「武士のみぎりに極む弓になれ矢になれ千代の竹のひと村 九十一嫗志き婦□」
略歴 高畠式部(たかばたけ しきぶ) 天明5年(1785)~明治14年(1881)
女流歌人。伊勢(三重)松阪の生まれ。名は刀美。号は式部のちに志貴婦と改称する。家号を麦の
舎という。石井道元の子で、矢辺平八郎と結婚し、死別後、千種家出入の盲針医高畠清音と再婚、
高畠と称した。香川景樹に和歌を学び、景樹の没後は千種有功に師事した。式部は和歌のほかに、
書画彫刻にもたくみであった。著書には『麦の舎』『蓮月式部二女和歌集』などがある。
価格 45,000円
詳細 紙本揉紙表装 軸先竹製
総丈 タテ200㎝ ヨコ31.5㎝
本紙 タテ129㎝ ヨコ29㎝
状態 少シミ、本紙の上部に一部欠損、破れの跡が見られます。
作家名 井澤寛州
作品名 『達磨図画賛』
賛「祖師西来 一字不説」
略歴 井澤寛州(いざわ かんじゅう) 明治28年(1895)~昭和29年(1954)
臨済宗の僧。和歌山の生まれ。道号は寛州。法諱は宗潤。室号は泥龍窟。俗姓は井澤。16歳のとき、
兵庫県西宮市海清寺の中原鄧州老師について得度する。大正2年(1913)海清僧堂に掛塔、のち圓福
僧堂に転錫した。また、神月徹宗老師に嗣法する。昭和4年(1929)熊本市見性寺の住職となり、同
7年(1932)海清寺住職を経て、同12年(1937)圓福僧堂師家に就任した。語録には『泥龍窟語録』
追悼集に『泥龍遺芳』がある。
価格 80,000円
詳細 紙本揉紙表装
総丈 タテ125㎝ ヨコ30㎝
本紙 タテ39.5㎝ ヨコ27.5㎝
状態 少シミアリ。
作家名 覚融
作品名 一行書 「僧敲月下門」
略歴 覚融(かくゆう) ?~天明8年(1788)
新義真言宗の学僧。尾張(愛知)の生まれ。字は宏道。号は白雲居。尾張天王坊(亀尾山安養寺)第
二十五世。特に豊山性相学の鼻祖として知られる。南都で因明を学び、のち豊山にのぼる。豊山で
は性相学を中心に講じた。この頃の豊山は、特に性相学が盛んであり、法住、戒定、快道、栄天、
慈光、周海、恵隆、無相、栄性などの学匠が輩出して豊山教学を華やかにした時代といわれ、覚融
はその第一人者である。又、覚融は、尾張の画人内藤東甫が金剛山長栄寺で主宰する九老尚歯会の
主要人物の一人。この会には儒者で本草学者の松平君山や俳人の横井也有も参加している。この場
景は『尾張名所図会』に、図像と和歌が『張城尚歯会』に出ています。著書には『六合釈講林』一
巻、『百法問答鈔通考刪補』九巻、『百法問答鈔講林』八巻、『内伝要術指南』一巻、『三部鈔口
決輯』三巻などがある。
価格 200,000円
詳細 紙本絹装三段表具
総丈 タテ173.5㎝ ヨコ32.5㎝
本紙 タテ96㎝ ヨコ28㎝
状態 表具裏打ち虫穴新装補修。
作家名 賀川豊彦
作品名 詩書
「一枚の最後に残ったこの衣神の為めには猶脱がんとぞ思ふ 豊彦 一九三一・二・三
原田先生」
略歴 賀川豊彦(かがわ とよひこ) 明治21年(1888)~昭和35年(1960)
牧師、社会運動家。兵庫の生まれ。4歳のとき両親と死別し、徳島県の賀川家にひきとられた。徳
島中学在学中にキリスト教宣教師H・W・マヤスに導かれ、明治37年(1904)に受洗した。明治学
院神学部予科を卒業後、神戸神学校に転校する。神戸神学校在学中から神戸の貧民街に住み伝道を
開始し、傍ら社会事業による貧困の解決に取り組んだ。トルストイの無抵抗主義、ヘンリー・ドラ
モンドやジョン・ウェスレーの思想に影響を受け、また岡山孤児院の石井十次、救世軍の山室軍平
より感化される。大正3年(1914)アメリカに留学し、プリンストンで神学の他に心理学・生物学
を専攻した。帰国後は労働組合運動による無産者の解放を重視し、鈴木文治らの友愛会に加盟した。
神戸市の川崎・三菱両造船所の労働争議をはじめ数多くの労資闘争の第一線で活躍した。社会小説
『死線を越えて』はそれらの記録であり、ベストセラーとなった。昭和4年(1929)日本基督教連
盟による「神の国運動」の推進者となり全国を行脚した。また、アメリカ、ヨーロッパ、インド、
中国などで伝道講演を行った。同15年(1940)反戦論を説いたとして渋谷憲兵隊に留置され、その
後もたびたび官憲の圧迫を受けた。第二次世界大戦後、東久邇宮内閣の参与となり、また社会党の
結成、新日本建設キリスト運動、世界連邦運動など多岐にわたる活動を続け、欧米諸国、ブラジル
などでも伝道講演を行った。その活躍からノーベル平和賞候補者に推薦される。文筆をよくし著書
百五十冊、翻訳書二十五冊に及んだ。代表的なものに『貧民心理の研究』、小説『死線を越えて』
『一粒の麦』、詩集『涙の二等分』『イエスの宗教とその真理』などがある。
注記 この為書の「原田先生」とは、日本橋教会牧師の原田友太のことと考えられます。
原田友太(1881~1946)の略歴を記すと、熊本県に生れる。熊本第五高等学校を経て、政治
家を志し上京、東京帝国大学に入学。学友杉田豊助に導かれて入信し、服部章蔵より洗受す
る。召命を感じ、帝大を中退して、明治学院神学部に入学し、1910年に卒業し、同年に日本
橋教会牧師に就任した。日本橋協会に36年間在職し現職のまま死去。明治学院神学部の同期
生に賀川豊彦、中山晶樹、高崎能樹らがいた。このことから、この作品は日本橋協会第5代牧
師(1910~1945)の在職中に賀川豊彦から与えられたものであることが知られます。
価格 180,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ110㎝ ヨコ73.5㎝
本紙 タテ37.5㎝ ヨコ63㎝
状態 少シミアリ。
作家名 井澤寛州
作品名 一行書 「柳緑花紅」
略歴 井澤寛州(いざわ かんじゅう) 明治28年(1895)~昭和29年(1954)
臨済宗の僧。和歌山の生まれ。道号は寛州。法諱は宗潤。室号は泥龍窟。俗姓は井澤。16歳のとき、
兵庫県西宮市海清寺の中原鄧州老師について得度する。大正2年(1913)海清僧堂に掛塔、のち圓福
僧堂に転錫した。また、神月徹宗老師に嗣法する。昭和4年(1929)熊本市見性寺の住職となり、同
7年(1932)海清寺住職を経て、同12年(1937)圓福僧堂師家に就任した。語録には『泥龍窟語録』
追悼集に『泥龍遺芳』がある。
価格 23,000円
詳細 紙本揉紙表装
総丈 タテ185㎝ ヨコ30㎝
本紙 タテ106.5㎝ ヨコ28㎝
状態 オレ、表具少虫穴アリ。
作家名 川村景明
作品名 漢詩七絶
「粛々進軍宵巳闌 腥風悽惨撲征鞍 沙場百戦成功暁 三塊石山停馬看 明治丗七八年戦役
三塊石山夜襲所感 景明□□」
略歴 川村景明(かわむら かげあき) 嘉永3年(1850)~大正15年(1926)
陸軍軍人、元帥陸軍大将。鹿児島の生まれ。諱は景明。通称は源十郎。文久3年(1863)14歳のと
き、父に従って薩英戦争に従軍した。戊辰戦争に参戦後御親兵隊の軍曹となり、爾後累進して大尉
のとき萩の乱、ついで西南戦争に従軍した。近衞歩兵第一旅団長として日清戦争に出征する。戦後
近衞師団長北白川宮能久親王のもとで、台湾鎮定にあたった。日露戦争では、独立第十師団長とし
て大孤山から岫巌に作戦し、ついで第四軍司令官野津道貫大将の隷下に入って遼陽以後の会戦に参
加した。沙河の会戦における三塊石山の大夜襲の勝利は、彼の武功に数えられた。明治38年(1905)
大将に昇進。奉天の会戦には鴨緑江軍司令官として参加し、山地行動の苦労をもって偉功を奏した。
戦後東京衛戍総督となり、大正4年(1915)元帥府に列した。明治40年(1907)戦功により子爵を
授けられる。
価格 25,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ199㎝ ヨコ56.5㎝
本紙 タテ121㎝ ヨコ41㎝
状態 裏数ヶ所水シミ・表具少虫穴アリ。
作家名 椎尾弁匡
作品名 短歌 「柿しふのそのままなれる甘露味やきのふのやみもけふのあかるさ 辨匡□□」
略歴 椎尾弁匡(しいお べんきょう) 明治9年(1876)~昭和46年(1971)
仏教学者、浄土宗の僧。愛知の生まれ。号は順蓮社性誉随阿。字は節堂。明治21年(1888)父椎尾
順位の実弟である岸上恢嶺の縁で瑞宝寺の原弁識について得度し弁匡と改名した。東京帝国大学哲
学科宗教学を卒業後は宗教大学教授を務めた。大正4年(1915)『釈尊よりシャンカラ・アーチャ
リアにいたる印度哲学』で文学博士の学位を受ける。浄土宗学部長、早稲田大学講師、東海中学校
校長、大正大学教授、同文学部長、同学長兼専門部部長などを歴任した。また、大正2年(1913)
清林寺、同15年(1926)建中寺、昭和15年(1940)清浄華院、同20年(1945)増上寺八十二世の
住職となる。宗教は単なる個人の解脱ではなく、社会的事象であり、社会的に解脱し、真の共生を
完うすべきであるとし「共生」(ともいき)運動を展開した。昭和10年(1935)財団法人共生会を結
成し会長に就任する。一方で、衆議院議員に当選し、国会議員としても活動をつづけた。昭和6年
(1931)勧学、翌年司教に叙任される。80歳以後は失明状態であったが、なおも活動をつづけ、「昭
和の鑑真」と称された。著書には『仏教経典概説』『仏教哲学』『仏教要領十講』など多数ある。
価格 25,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ202.5㎝ ヨコ44㎝
本紙 タテ135.5㎝ ヨコ33㎝
状態 オレ、少シミ、表具少虫穴アリ。
作家名 友松圓諦
作品名 一行書 「資生産業是佛道」 (為書アリ)
略歴 友松圓諦(ともまつ えんたい) 明治28年(1895)~昭和48年(1973)
仏教学者、浄土宗の僧。愛知の生まれ。法名は転法輪春誉円諦。幼名は春太郎。10歳のとき東京安
民寺の伯父友松諦常の養子となる。宗教大学、慶応義塾大学文学部史学科を卒業後は大学予科講師、
大正大学講師を歴任した。昭和2年(1927)ドイツ、フランスに留学、帰朝後は仏教法政経済研究
所、明治仏教編纂所、国際仏教協会をそれぞれ設立して常任理事となった。同6年(1931)安民寺
の住職となる。同9年(1934)東京放送局の聖典講義に『法句経』を講義し大きな反響を呼んだ。
昭和10年(1935)には雑誌『真理』を創刊し、仏教活動の拠点の「真理運動本部」を設立した。同
22年(1947)神田寺を創建したが、この寺を一宗一派にぞくさない寺とするため浄土宗を離脱する。
神田寺に従来から住職をしていた安民寺と法禅寺を単立寺院として合併した。仏教の大衆化をはか
るため、庶民的語りかけをした努力は大きく、同48年(1973)仏教伝道文化賞を受賞した。著書に
は『仏教経済思想研究』『仏教に於ける分配の理論と実際 上下』『法句経講義』のほか多数ある。
価格 250,000円
詳細 絹本絹三段表装
総丈 タテ191㎝ ヨコ39㎝
本紙 タテ104㎝ ヨコ27.5㎝
桐合箱
状態 少シミアリ。
作家名 谷口雅春
作品名 「實相」
略歴 谷口雅春(たにぐち まさはる) 明治26年(1893)~昭和60年(1985)
宗教家、生長の家の創設者。兵庫鳥原の生まれ。俗名は正治。大正3年(1914)早稲田大学英文科
を中退する。同6年(1917)大本教に入信し、機関誌「神霊界」を編集するが、同11年(1922)離
教した。昭和14年(1939)修養誌「生長の家」を創刊し、同7年(1932)聖典「生命の実相」を発
刊する。同9年(1934)光明思想普及会を設立し、同15年(1940)宗教結社生長の家を創設、総裁
となった。同17年(1942)宗教法人生長の家とし、その教線を拡大した。著書には『生命の実相』
40巻、『新選谷口雅春選集』20巻、『甘露の法雨』『生長の家とは如何なるものか』などがある。
価格 120,000円
詳細 紙本絹装三段表具
総丈 タテ164㎝ ヨコ45.5㎝
本紙 タテ79.5㎝ ヨコ33㎝
桐合箱
状態 美品 。
作家名 葉上照澄
作品名 「自然」
略歴 葉上照澄(はがみ しょうちょう) 明治36年(1903)~平成元年(1989)
天台宗の僧。大行満大阿闍梨。岡山和気の生まれ。号は南山。大正15年(1926)東京帝国大学哲学
科を卒業する。大正大学教授、山陽新聞論説委員を経て、昭和22年(1947)比叡山に入山した。千
日回峰行・運心回峰などを修行する一方、比叡山高等学校校長、延暦寺学園理事を歴任した。同43
年(1968)滋賀東南寺の住職となり、翌年大僧正に任ぜられる。また、世界連邦日本宗教委員会会
長、仏教伝道協会理事長を務め、京都高山寺やインド・ブッダガヤの日本寺を兼務した。
著書には『倫理学概説』『雲海』『道心』『遊心』『願心』がある。
価格 35,000円
詳細 紙本絹装三段表具
総丈 タテ149㎝ ヨコ47㎝
本紙 タテ64㎝ ヨコ34㎝
桐共箱
状態 シミアリ。
作家名 夏目漱石画 ≪複製(手彩色)≫
作品名 『青嶂紅花図』
略歴 夏目漱石(なつめ そうせき) 慶応3年(1867)~大正5年(1916)
小説家、英文学者、俳人。江戸牛込馬場下(東京)の生まれ。名は金之助。俳号は愚陀仏。二松学
舎で漢文学を、成立学舎で英語を学んだ。その後、大学予備門科を経て、第一高等中学校本科(予
備門を改称)に進学した。学生時代の同窓生である正岡子規に漢詩や俳句などの文学上の影響を受
けた。帝国大学英文科卒業後は東京高等師範学校教師、東京専門学校講師、愛媛県尋常中学校教師
を歴任する。また、子規主宰の運座に加わり、熱心に句作するようになる。漱石は写生句に加えて、
漢詩・古典趣味の感覚的・絵画的な蕪村調が試みられた。さらに自己の内面を機知や洒脱をこめて
主観的に表出する暢達な句風に、独自性を示した。明治33年(1900)英国に留学、帰国後は再び教
職を務めた。同38年(1905)『吾輩は猫である』を俳句雑誌「ホトトギス」に掲載し、文名を得た。
同40年(1907)朝日新聞社に入社する。傍ら、小説の執筆を行った。大正5年(1916)病状の悪化
により『明暗』の執筆途中に自宅で死去した。終始句作を続け生涯にわたる俳句は二五〇〇句ぐら
いに達している。「人に死し鶴に生れて冴え返る」「菫程な小さな人に生れたし」「有る程の菊抛
げ入れよ棺の中」
著書には、『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』など多数ある。
注記 本画幅は、岩波書店所蔵の『青嶂紅花図』の複製品に桃とみられる紅花に手彩色を加えた作
品である。この作品の出所については、『漱石全集月報』に「津田青楓が手彩色した大塚巧
芸社版がある」ということから、この画幅はそれに相当すると思われる。
価格 380,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ203㎝ ヨコ45㎝
本紙 タテ131㎝ ヨコ32㎝
桐合箱
状態 少シミアリ。
作家名 田代尚光
作品名 名号 「南無阿弥陀佛」
略歴 田代尚光(たしろ しょうこう) 明治36年(1903)~昭和63(1988)
融通念仏宗の学僧。大念仏寺六十二世。大阪の生まれ。俗名は山野定戒。号は明珠院、不睡庵。
11歳で河内極楽寺の清原章山について得度、章山の没後、堺林昌寺の森田霊戒に師事する。田代
虎戒の養子となり、26歳のとき尚光と改名した。昭和13年(1938)林昌寺住持、同43年(1968)
宗務総長、同54年(1979)大念仏寺法主となる。「融通念仏縁起」の研究家としても知られる。
著書には『増訂融通念仏縁起之研究』『良忍上人と大念仏寺』がある。
価格 100,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ185㎝ ヨコ46㎝
本紙 タテ121㎝ ヨコ33㎝
桐共箱
状態 極少シミ、オレアリ。
作家名 宇野哲人
作品名 漢詩七絶
「千里鶯啼緑映紅 水村山廓酒旗風 南朝四百八十寺 多少樓臺煙雨中 宇野哲人□□」
『江南春』唐の詩人・杜牧の代表作
略歴 宇野哲人(うの てつと) 明治8年(1875)~昭和49年(1974)
中国哲学者。熊本の生まれ。字は季明。号は澄江。明治33年(1900)東京帝国大学文科大学漢学科
を卒業する。同36年(1903)東京高等師範学校教授となり、同38年(1905)清国・ドイツに留学す
る。大正8年(1919)東京帝国大学教授、昭和14年(1939)国立北京大学名誉教授、同20年(1945)
東方文化学院長、同24年(1949)実践女子大学長を歴任した。中国哲学、特に宋代の哲学を、西洋
哲学史の手法に学びつつ、儒学中心の立場で体系づけた。学風は穏健・平明であり、温雅で偏見の
ない人柄とあいまち、漢学界の長老といわれた。学位は文学博士。
著書には『孔子教』『東洋哲学大綱』『支那哲学概論』など多数ある。
価格 75,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ203㎝ ヨコ54㎝
本紙 タテ130㎝ ヨコ41㎝
桐合箱
状態 少シミアリ。
作家名 石橋誡道
作品名 「無量壽」
略歴 石橋誡道(いしばし かいどう) 明治11年(1878)~昭和40年(1965)
宗学者、教育者。愛知の生まれ。号は大蓮社教誉信阿。道号は実行、碧水。明治21年(1888)浄土
宗西山派の長沢光用寺に弟子入りし、重松を誡道と改めた。のち貞照院の太田大信に師事し、同39
年(1906)浄土宗高等正科を卒業する。さらに進んで宗教大学研究科に学び、宗余乗を究めたが、
とりわけ野上海運・桜木谷慈薫について天台学を修め同42年(1909)卒業した。その後、東京小石
川光雲寺で、高野海音とともに『浄土宗全書』の編集に従事したが、内地留学生を拝命したため、
その職を辞し、成等庵に在留して勤息義城に師事し、天台学および宗乗を研究した。仏教専門学校
校長、尼衆学校教授、家政学園家政女学校校長などを歴任する。また、昭和20年(1945)大本山清
浄華院に晋董した。昭和5年(1930)権僧正、同13年(1938)巳講、同19年(1944)正僧正、同20
年(1945)准司教、大僧正、同25年(1950)司教、同26年(1951)勧学に叙せられた。
著書には『時代と宗教』『九品寺流長西教義の研究』『貞照院歴代上人略伝』などがある。
価格 55,000円
詳細 箱書には、昭和四十年一月浄華教誉書八十八とあるところから石橋誡道最晩年の作品であることが
知られる。
紙本絹装三段表具
総丈 タテ157㎝ ヨコ46㎝
本紙 タテ65㎝ ヨコ33㎝
桐共箱
状態 少シミアリ。
作家名 本庄繁
作品名 「報國志愈堅」
略歴 本庄繁(ほんじょう しげる) 明治9年(1876)~昭和20年(1945)
陸軍大将。兵庫の生まれ。号は青州、剣華。陸軍士官学校、陸軍大学卒。大正13年(1924)歩兵
第4旅団長、翌年支那駐在武官、昭和3年(1928)第10師団長、同6年(1931)関東軍司令官、同7
年(1932)軍事参議官、同8年(1933)侍従武官長、同11年(1936)予備役、同13年(1938)軍
事保護院総裁を歴任する。シベリア出兵に際して歩兵第11聯隊長(第5師団、歩兵第9旅団)とし
て出征、ウスリーおよびザバイカル方面での討伐作戦に参戦した。また、関東軍司令官の着任時
には板垣征四郎大佐(高級参謀)、石原莞爾中佐(作戦主任参謀)等の謀略により満州事変が惹
起、その指揮を執った。二・二六事件に際しては娘婿の山口一太郎陸軍大尉が反乱軍と気脈を通
ずる革新将校であったために本庄の立場を苦しいものにした。本庄は反乱軍に対する天皇の怒り
に接しひたすら恐懼した。敗戦後の昭和20年(1945)11月20日に自刃した。昭和8年(1933)~
11年(1936)の侍従武官長時に記した『本庄日記』は現代史の貴重な資料とされている。
価格 42,000円
詳細 紙本絹装三段表具
総丈 タテ113.5㎝ ヨコ34.5㎝
本紙 タテ26.5㎝ ヨコ23.5㎝
桐合箱
状態 少シミアリ。
作家名 大森智祥
作品名 一行書 「壽福音」
略歴 大森智祥(おおもり ちしょう) 明治33年(1900)~昭和62年(1987)
宗教家。和歌山の生まれ。高野山大学卒業後、五条市真言宗十輪寺の住職となる。昭和27年(1952)
妻清子が水の神弁才天の天啓をうけ宗祖智弁尊女として管長大森智祥とともに弁天宗を開宗した。
同 29年(1954)五條市野原町に同宗本部を設立する。国内には多くの信徒がおり、全国各地に教会
別院 を建立。同40年(1965)智弁学園創立、同53年(1978)和歌山市に同学園和歌山校開校、同
51年(1976)養護老人福祉施設「祥水園」を完成する。
価格 55,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ200㎝ ヨコ47㎝
本紙 タテ135㎝ ヨコ34㎝
桐合箱
状態 オレ、少ヨゴレアリ。
作家名 日燈賛、海北友賢画
作品名 『元政上人肖像画』
日燈賛「無辺衆生無頓惑 不度而度不断断 無盡法門無上覚 誓願而知誓願満 草山波羅蜜題
□□」
略歴 元政(げんせい) 元和9年(1623)~寛文8年(1668)
日蓮宗の学僧、漢詩人。京都の生まれ。諱は日政、日如、日峰。字は元政。号は妙子、不可思議、
泰堂など。通称は深草の元政、草山和尚、草山元政。毛利家家臣石井宗好の5男。彦根藩主井伊直
孝に出仕し、26歳で京都妙顕寺の日豊について出家する。33歳で山城深草に称心庵(瑞光寺)を
営み隠棲した。内省自行を尊び、持病に苦しみながら法華律(草山律、本化律)を提唱して僧道
の復興を図り、後の日蓮宗教団に大きな影響を与える。また熊沢蕃山・石川丈山・北村季吟らと
交流があり、自身も当代一流の詩人・歌人で、その詩文集『草山集』には高雅な秀作を収めている。
著書には『草山和歌集』一巻、『元元唱和集』二巻、『身延道の記』一巻のほか多数ある。
日燈(にっとう) 寛永19年(1642)~享保2年(1717)
日蓮宗の僧。三河(愛知)の生まれ。字は慧明。号は波羅蜜。初め律宗の慈任について出家し、智
岸と称した。その後、省我律師の紹介で京都瑞光寺の元政に師事する。元政の入寂後は瑞光寺を継
承した。日燈は草山の忠実な祖述者であり、特に『草山清規』一篇は元政の遺風を法規とし、修行
の心地および行儀を述べ、草山一門の修行の綱領とした。また、持戒持律に厳しく、常に求道の精
神をもち、法華律といわれた草山の規範を整理し組織化をなした。晩年は微疾に罹り、「本有生死、
無去無来、泰然坐了、妙法蓮台」の遺偈と和歌一首を書して入寂、世寿76歳。著書には『三大秘法
弁』『宗門禁要』や『要路会註』『草山集抄』などがある。
海北友賢(かいほう ゆうけん)
名は正利。通称は瀧吉兵衛。友雪の門人。元禄15年(1702)祇園社に仁田四郎忠常斬猪図の額を
画く。海北家においては、友雪の二男であると伝えられているが恐らくは養子であると思われる。
元政上人の御姿を伝える新出と考えられる肖像画をここに御紹介申し上げます。
元政上人のお姿については、青山嘉次郎著の『深草の元政』に「元政の容姿」の次の一文が掲載さ
れています。元政上人の姉の春光院は、井伊直孝侯の側室であったことから、「諸侯の側室の美人
たるべきは疑いないことで、その弟の元政上人の容姿が優しう麗しかったことは、こればかりでも
想像せられる」、又「綺麗な剃頭であるから真に卵に目鼻を描いたやうな顔で繊い眉に所謂蒙古型
の涼しい目、清く癯せて衣に耐へないやうな姿は婦人女子の如く」とある様な、まさにこの表現に
ピッタリとあてはまるお姿を本画幅は伝えているものと言えます。
価格 お問い合わせください。
詳細 絹本着色絹装表具
総丈 タテ171.5㎝ ヨコ43㎝
本紙 タテ81.5㎝ ヨコ31㎝
太巻き桐合箱
状態 水シミアリ。一部補絹アリ、補修の裏書きあり。
作家名 狭川明俊
作品名 一行書 「無垢清浄光」
略歴 狭川明俊(さがわ みょうしゅん) 明治24年(1891)~昭和63年(1988)
宗教家・俳人。添上郡狭川村(奈良)の生まれ。明治34年(1901)11歳で東大寺真言院に入り、上
野明淳に師事した。奈良県立郡山中学校を卒業後、華厳宗勧学院に進む。書は京都の山本寛山に、
華厳宗は山上戒全に学んだ。大正7年(1918)塔頭北林院の住職となる。昭和36年(1961)東大寺
二〇三世別当華厳宗管長となる。同38年(1963)鑑真和上円寂千二百年忌法要日本代表として中国
各地を巡錫した。また、金鐘中学校や東大寺整肢園の設立に努力した。昭和42年(1967)社会福祉
事業に尽力した功績により叙勲、勲五等旭日双光章を受ける。翌年、月甫と号し俳誌『倦鳥』の主
催者、選者を務めた。著書には『東大寺長老狭川明俊師建碑記念句抄』がある。
価格 28,000円
詳細 紙本絹装三段表具
総丈 タテ189㎝ ヨコ32.5㎝
本紙 タテ111.5㎝ ヨコ30㎝
桐共箱
状態 少シミアリ。
作家名 辻村泰圓
作品名 一行書 「自由自在」
略歴 辻村泰圓(つじむら たいえん) 大正8年(1919)~昭和53年(1978)
真言律宗の僧、社会福祉事業家。香川高松の生まれ。幼名は定。昭和13年(1938)高野山大学予
科、同16年(1941)九州帝国大学西洋哲学科を卒業した。昭和8年(1933)奈良宝山寺の駒岡乗
円について出家。同18年(1943)奈良元興寺の住職となり、同20~21年(1945~46)高野山大学
教授となる。元興寺の修理や、昭和42年(1967)元興寺仏教民俗資料研究所(元興寺文化財研究
所)を設立し、文化財の保護と研究に努めた。同50年(1975)正強学園理事長、翌年学園長、の
ち奈良大学理事長を務めた。また、宝山寺福祉事業団を設立し、保育園・老人ホーム・心身障害児
福祉センターなどを運営、社会福祉事業にも尽力した。
価格 35,000円
詳細 紙本絹装三段表具
総丈 タテ170㎝ ヨコ35㎝
本紙 タテ88㎝ ヨコ24㎝
桐合箱
状態 少シミ、オレアリ。
作家名 後藤貞行
作品名 『馬図』
略歴 後藤貞行(ごとう さだゆき) 嘉永2年(1850)~明治36年(1903)
明治時代の彫刻家。紀伊和歌山藩士の家に生まれる。陸軍軍馬局などにつとめ、かたわら高村光雲
に師事する。馬の彫刻を得意とした。明治23年(1890)東京美術学校(現・東京芸大)雇となり、
馬の生態に詳しい後藤が「美術解剖」の授業を担当。次の担当が陸軍軍医学校教官の森鷗外であっ
た。同31年(1898)岡倉天心の辞職に伴い美術学校を辞める。光雲のもとで「楠公像」の馬、「西
郷隆盛像」の犬を制作した。
価格 お問い合わせください。
詳細 この作品は絹本に背影や松を岩絵具で日本画風に画き、馬の筋肉や血管の筋、たてがみを丁寧に
よりリアルに画く為に西洋画の顔料を用いています。
絹本着色絹装丸表具
総丈 タテ190.5㎝ ヨコ66.5㎝
本紙 タテ124㎝ ヨコ49.5㎝
状態 表具虫食い、軸先片方欠。
作家名 大西良慶
作品名 名号 「南無阿彌陀佛」
略歴 大西良慶(おおにし りょうけい) 明治8年(1875)~昭和58年(1983)
明治~昭和期の北法相宗の僧。奈良の生まれ。幼名は広治。通称は清水さん。号は無隠。多武峰談山
神社神職の次男として生まれる。明治22年(1889)九条家の嘱望で興福寺再興のために入寺し、千早
定朝に従って出家。翌年法隆寺の佐伯定胤に唯識を学ぶ。同32年(1899)興福寺231世、同37年(
1904)法相宗管長、大正3年(1914)清水寺住職となり、興福寺を兼務。昭和40年(1965)清水寺を
本山とする北法相宗を設立し、初代管長に就任。諸宗に造詣が深く、仏教界の要職を歴任し、中国仏
教界との交渉をはじめ、社会教化事業・平和運動にも尽力。同50年(1975)仏教伝道功労賞、翌年朝
日社会福祉賞などを受賞。大正4年(1915)から48年間孟蘭盆法話を続け、良慶節といわれる説法で
親しまれた。著書には『観音経のこころ』『信仰と人生』『大西良慶選集6巻』などがある。
価格 150,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ192㎝ ヨコ47㎝
本紙 タテ127㎝ ヨコ32㎝
状態 オレ、少虫穴、ヨゴレアリ。
作家名 山田安民
作品名 和歌 「奈良にてあめの日によめる 安民 やまにたつ もやのうこきを 見てをれは
あめにきこゆる 大佛のかね」
略歴 山田安民(やまだ やすたみ) 明治元年(1868)~昭和18年(1943)
実業家。宇陀郡伊那佐村字池上の生まれ。明治23年(1890)東京市国民英学会を卒業し、イギリス
法律学校に入学したが、中途退学し、帰郷後は売薬業に従事した。同32年(1899)大阪でロート製
薬の前身である山田安民薬房を創設し、健胃剤「胃活」を発売する。また、奈良では殖産業にも従
事した。同38年(1905)東京で最初の売薬輸出を開始し、上海、天津に支店を開設した。明治41年
(1908)ロート目薬を製造販売する。大正5年(1916)大阪府売薬同業組合長に当選、同9年(1920)
には、私財を投じて奈良市に私立奈良盲唖学校を開設した。昭和13年(1938)大阪府より実業功労
者として表彰された。安民は資性温厚篤実にして実業界の元老で信望ははなはだ厚かった。著書に
は『大和古今孝子伝』がある。実弟には津村順天堂の創業者の津村重舎がいる。
価格 350,000円
詳細 紙本揉み紙表装、料紙墨流し金砂子散し。
総丈 タテ124㎝ ヨコ49.8㎝
本紙 タテ34.5㎝ ヨコ47㎝
檜合箱
状態 少オレアリ。
作家名 明誉古磵
作品名 『法然上人柴戸図和歌賛』
「しはの戸に 朝夕かかる しら雲を いつむらさきの くもと見なさん」
略歴 明誉古磵(みょうよ こかん) 承応2年(1653)~享保2年(1717)
江戸中・後期の浄土宗の画僧。僧名は、證蓮社明誉虚舟古磵。初め大和郡山の西岸寺に住し、のち
上洛して鳴虎の報恩寺に晋董した。古磵は宗乗を学ぶ傍ら、画法を狩野永納にうける。また雪舟の
画法を慕い、人物・山水をよくし、大黒天像を得意とした。また『続近世畸人傳』では、近江の高
田敬輔も学んだと伝えている。代表的な作品としては、「大仏殿虹梁木曳図」「薬師寺縁起絵巻」、
泉涌寺の涅槃図の大作が残されている。また、『浄土十六祖図伝』『円光大師贈号絵詞伝』等の押
し絵の作品が残されている。同人の作品は浄土宗No.Aー10に掲載しています。
価格 280,000円
詳細 紙本絹装三段表具
総丈 タテ124㎝ ヨコ70.5㎝
本紙 タテ32㎝ ヨコ57.5㎝
状態 表具虫穴アリ。
作家名 山川智応
作品名 御題目 「南無妙法蓮華経」
略歴 山川智応(やまかわ ちおう) 明治12年(1879)~昭和31年(1956)
仏教学者。日蓮宗国柱会。大阪の生まれ。本名は伝之助。1歳のとき、山川家の養子となる。小学校
四年まで水戸学、陽明学、仏教学を学び、14歳で田中智学の立正安国会に入る。19歳で小学教員試験
に合格し、北野小学校に奉職した。明治32年(1899)智学の獅子王医院に入り、月刊誌「妙宗」の記
者となり、智学から智応の名をもらう。智学の日蓮主義運動に参加する。国柱会講師、獅子王文庫学
頭、立正大学講師を歴任して、昭和9年(1934)東京帝国大学から文学博士号を得た。著書には『和
訳法華経』『日蓮聖人伝十講』『法華思想史上の日蓮聖人』など多数ある。
価格 350,000円
詳細 紙本絹装三段表具 軸先牙
総丈 タテ189㎝ ヨコ44.5㎝
本紙 タテ112㎝ ヨコ30㎝
檜合箱
状態 少シミ、オレアリ。
作家名 濱口雄幸
作品名 漢詩七絶 「千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風 南朝四百八十寺 多少楼臺煙雨中 空谷□□」
『江南春』唐の詩人・杜牧の代表作
略歴 濱口雄幸(はまぐち おさち) 明治3年(1870)~昭和6年(1931)
大正・昭和時代に活躍した官僚出身の政党政治家。高知の生まれ。号は空谷。幼少の頃より勉学に
励み学業はいつも優秀な成績を修めていた。安芸郡の豪農であった濱口義立の養子となる。東京帝
国大学卒業後は、大蔵省に就職し専売局長官、逓信次官、大蔵次官を歴任した。田中内閣の総辞職
後、内閣総理大臣に就任した。濱口内閣の掲げる「十大政綱」は戦前の政策としては前後の内閣と
区別される特色をもつ。とりわけ対中国親善、軍縮促進、金解禁などに尽力する。昭和5年(1930)
東京駅で愛国社社員佐郷屋留雄の狙撃により重傷を負う、翌年治療を続けるも放線菌症のため逝去
した。
価格 20,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ151㎝ ヨコ43㎝
本紙 タテ67㎝ ヨコ32㎝
桐合箱
状態 少シミ、オレアリ。
作家名 川村驥山
作品名 漢詩 「治家以動倹為先 恃衆以謙和為首 酉寅之秋 驥山慎□□」
略歴 川村驥山(かわむら きざん) 明治15年(1882)~昭和44年(1969)
日本の書家。静岡の生まれ。名は慎一郎。号は二葉のち驥山と改める。別号に酔仏居士、酔驥、長
嘯庵主人がある。幼少の頃より父東江に書道、漢学を学び、さらに太田竹城や岡田良一郎に漢学を
学ぶ。13歳の時、明治天皇銀婚式典に楷書孝経、草書出師表を暗書して天覧の栄を賜り神童と称さ
れた。明治37年(1904)長崎晧台寺の霖玉仙について禅学を修業する。大正の初め内閣賞勲局文書
課に勤務した。日本書道作振会・泰東書道院の審査員をつとめ、昭和6年(1931)には文化使節とし
て中国に渡る。東方書道会を結成、日本芸術院賞、長野文化功労賞を受賞する。昭和40年(1965)
勲三等瑞宝章を受け、同44年(1969)従四位に叙せられた。驥山の書は楷書は鐘繇風、草書は狂草
に妙を得ている。
価格 80,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ188.5㎝ ヨコ45.5㎝
本紙 タテ137㎝ ヨコ33㎝
桐合箱
状態 シミ、オレアリ。
作家名 山本雨宝
作品名 一行書 「花知鳥待花」
略歴 山本雨宝(やまもと うほう) 明治36年(1903)~昭和63年(1988)
真言宗豊山派の僧。飛鳥寺(安居院)長老、箏曲家震琴とも。京都の生まれ。豊山専修学校卒業後、
飛鳥寺の住職となる。文政年間(1818~30)に作られた琴の一種、八雲琴(二弦琴)を中平遊琴ら
に師事、八雲琴七代目宗家の免許を受ける。昭和12年(1937)万葉歌碑建設、同16年(1941)観音
堂を建立する。同34年(1959)権大僧都となる。昭和43年(1968)八雲琴(二弦琴)演奏保持者と
して国の無形文化財に指定される。
価格 55,000円
詳細 箱書によると昭和六十二年八十五才の最晩年の作品であることが知られる。又、別紙にて「鳥」の
字を二回読むことや、この書の本来の意味の説明が付けられている。
紙本絹装丸表具
総丈 タテ159㎝ ヨコ44㎝
本紙 タテ66㎝ ヨコ32㎝
桐共箱
状態 極少シミアリ。
作家名 植村家壺
作品名 漢詩五絶 「葉晴前紅雨 花飛昨松風 空山人不見 春在緑陰中 辛未暮春 櫻處逸人□□」
略歴 植村家壺(うえむら いえひろ) 弘化4年(1847)~大正9年(1920)
明治時代の大名、華族。大和高取藩二万五千石植村家第十四代当主。官位は従五位下、出羽守、従二
位。播磨山崎藩本多忠鄰の六男として生まれる。21歳の時、第十三代植村家保の養子となる。明治元
年(1868)家保の隠居にともない高取藩最後の藩主に襲封。同2年(1869)藩治職制にともない職制
改革を実施する。また、同年版籍奉還により東京で高取藩知事に任ぜられる。同4年(1871)廃藩置
県の断行で、高取県が成立、藩知事は免職になり東京貫属となる。同年9月東京に移住。同年12月に
は高取県も廃され奈良県に編入、また藩士も解隊された。明治17年(1884)子爵を授けられる。法号
は瑞光慈照聖寿院。
価格 150,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ177.5㎝ ヨコ40㎝
本紙 タテ111.5㎝ ヨコ30㎝
状態 虫穴、シミアリ。
作家名 山田寒山
作品名 『墨竹寒山詩』
賛「有鳥五色文 棲桐食竹實 徐動合禮儀 和鳴中音律 昨來何以至 為君暫時出 儻聞絃歌聲
作舞欣今日 大正三年秋日興来漫心此図並題寒山詩 寒山田潤□□」
略歴 山田寒山(やまだ かんざん) 安政3年(1856)~大正7年(1918)
明治・大正時代の日本の篆刻家。愛知の生まれ。名は潤子。字は白王。号は寒山。曹洞宗の僧侶で
あったが18歳の頃、小曾根乾堂を訪ね、24歳で福井端隠の門に入り芙蓉派の篆刻を学んだ。明治30
年(1897)清国に渡り呉昌碩に師事する。荒廃していた蘇州寒山寺の住職となり、同寺の復興と夜
半の鐘の新鋳に尽力した。また、伊藤博文や尾崎紅葉らと親交があった。篆刻のほかにも詩・書・
画・楽焼にも秀で、その活躍ぶりは多岐にわたる。とりわけ富益斎著『印章備正』の刊行、蘭台、
荃廬、蔵六、椿処と丁未印社の結成等、斯界に残した足跡は大きい。作品集に『羅漢印譜』がある。
価格 60,000円
詳細 絹本絹装丸表具 軸先紫檀象牙
総丈 タテ217.5㎝ ヨコ52.5㎝
本紙 タテ149㎝ ヨコ37㎝
桐共箱
状態 オレアリ。
作家名 高楠順次郎
作品名 名号 「南無阿弥陀仏佛」
略歴 高楠順次郎(たかくす じゅんじろう) 慶応2年(1866)~昭和20年(1945)
大正・昭和期の仏教学者。広島の生まれ。幼名は梅太郎。号は篝村・雪頂。諡は宏学院釈順成。学生
時代は小林洵を名乗る。神戸の高楠家の養嗣子となる。ヨーロッパ留学中にオックスフォード大学の
マックス・ミュラーに師事、インド学、梵語学を学んだ。『大正新脩大蔵経』『国訳南伝大蔵経』の
出版や、『大日本仏教全書』の監修などに活躍、また仏教主義教育に傾注し武蔵野女子学院を設立、
東洋大学学長を務めた。昭和19年(1944)文化勲章受賞。
価格 600,000円
詳細 紙本新改装絹緞子上表具
総丈 タテ191㎝ ヨコ45㎝
本紙 タテ119㎝ ヨコ29.5㎝
桐合箱
状態 良好。
作家名 出所・作家不明
作品名 木版筆彩色金泥 『二河白道図』
略歴 二河白道(にがびゃくどう)
水火の二河の中間に足幅ほどの白道があり、絶体絶命のものが東岸(穢土)より西岸(浄土)にわた
ることを意味する譬喩。唐の僧善導大師が、『観経疏』散善義の廻向発願心釈の条で、念仏生活の過
程を説明するために用いた。
群賊悪獣に追われる旅人の前に南北に広がる波浪の水の河と火焔の火の河を人間の貪愛と瞋憎の煩悩
に、その二河にはさまれて東から西にのびる幅四、五寸ほどの一条の白道を極楽浄土への往生を願う
清浄の信心に喩えたもの。いかに煩悩にまみれても、白道を進めば阿弥陀仏の西方浄土に至りうるこ
とを説いたもの。
価格 120,000円
詳細 尾張藩御用絵師の喜田華堂(1802~1879)の描いた本画をもとに版におこしたものと考えられる。
紙本紙装丸表具
総丈 タテ123.5㎝ ヨコ59㎝
本紙 タテ47㎝ ヨコ53㎝
状態 オレ、表具少虫穴アリ。
作家名 網代智海
作品名 一行書 「長空一弓々大月」
略歴 網代智海(あじろ ちかい) 明治24年(1891)~昭和44年(1969)
真言宗室生寺派の僧。長谷寺七十一世。福島の生まれ。大正3年(1914)豊山大学研究科を卒業す
る。明治42年(1909)宥高について伝法灌頂を受け、のちに権田雷斧に密教事相を学んだ。大正6
年(1917)福島真浄院、昭和4年(1929)東京莊厳寺、同13年(1938)真言宗豊山派宗務長、同22
年(1947)室生寺住職などを歴任した。同24年(1949)長谷寺能化・豊山派管長、大僧正となり、
同寺の興隆に尽力した。同37年(1962)豊山派を離脱、同39年(1964)真言宗室生寺派を設立して
管長を務める。
価格 35,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ193.5㎝ ヨコ46㎝
本紙 タテ128㎝ ヨコ33㎝
状態 シミアリ。
作家名 大谷尊由
作品名 名号 「南無阿彌陀佛」
略歴 大谷尊由(おおたに そんゆ) 明治19年(1886)~昭和14年(1939)
浄土真宗本願寺派の僧。京都の生まれ。諱は尊由。幼名は徳麿。号は心斎。諡は積徳院。西本願寺二
十一世大谷光尊の四男、母は大谷藤子。妹に歌人の九条武子がいる。明治39年(1906)西本願寺二十
二世の兄大谷光瑞とともに中国に渡航し、教線の拡大に努めた。同41年(1908)神戸善福寺の住職に
なる。同43年(1910)西本願寺の執行長に就任し、ヨーロッパの宗教事情を視察。昭和3年(1928)
貴族院議院に勅任され、同12年(1937)近衛文麿内閣の拓務大臣に就任、のち内閣参議・北支開発会
社総裁を歴任した。本願寺派護持会財団理事長を務める。著書には『国土莊厳』『超塵画譜』『潮来
笠』がある。
価格 1,200,000円
詳細 絹本絹三段装上表具
総丈 タテ221㎝ ヨコ51.5㎝
本紙 タテ130㎝ ヨコ34.5㎝
桐合箱
状態 僅かにシミアリ。
作家名 大森智祥
作品名 「佛心者大慈悲也」 (『観無量寿経』より)
略歴 大森智祥(おおもり ちしょう) 明治33年(1900)~昭和62年(1987)
宗教家。和歌山の生まれ。高野山大学卒業後、五條市真言宗十輪寺の住職となる。昭和27年(1952)
妻清子が水の神弁才天の天啓をうけ宗祖智弁尊女として管長大森智祥とともに弁天宗を開宗した。
同29年(1954)五條市野原町に同宗本部を設立する。国内には多くの信徒がおり、全国各地に教会
別院を建立。同40年(1965)智弁学園創立、同53年(1978)和歌山市に同学園和歌山校開校、同
51年(1976)養護老人福祉施設「祥水園」を完成する。
価格 70,000円
詳細 紙本茶牡丹文丸表具、軸先朱漆塗
総丈 タテ189㎝ ヨコ49.5㎝
本紙 タテ127㎝ ヨコ35㎝
桐共箱
状態 オレ、ヨゴレ、少穴アリ。
作家名 泉智等
作品名 名号 「南無阿彌陀佛」
略歴 泉智等(いずみ ちとう) 嘉永2年(1849)~昭和3年(1928)
真言宗の僧。古義真言宗管長。阿波(徳島)鴨嶋の殿居に生れる。号は物外。十二歳のとき、板野郡
荘厳院の碩道のもとで出家する。また、徳島藩儒柴秋邨に漢籍を学び、高野山や智積院で宗学を研鑽
した。明治6年(1873)徳島泉福寺の住職となり、以来荘厳院・高野山円通寺・長崎延命寺・山口満
願寺・奈良吉祥寺ら三十余ヵ寺に転住した。また函館市高野山、鹿児島市最大乗院などを復興した。
大正12年(1923)高野山派管長・金剛峯寺座主。また、真言宗連合総裁。聡明にして事教二相に通達
し、明治初年から、東奔西走して全国に教化した功績は多大である。また、真言宗京都大学総理・高
野山大学総理となった。
価格 200,000円
詳細 絹本濃彩紫地筥迫文様丸表具
総丈 タテ182.5㎝ ヨコ38.5㎝
本紙 タテ113.5㎝ ヨコ27㎝
桐合箱
状態 少虫穴、少シミアリ。
作家名 藤村叡運
作品名 短歌 「遠山雪 真名鶴乃於りゐる者か梨東ほ山の多可ねしろ支八みゆきなるらむ」
(まなつるのおりいるはかりとほやまのたかねしろきはみゆきなるらむ)
略歴 藤村叡運(ふじむら えいうん) 嘉永元年(1848)~大正4年(1917)
真言宗の僧。山城(京都)の生まれ。奈良の東大寺真言院から大阪高津の自性院にうつり、のち
契沖の旧跡として知られる円珠庵の住職もかねた。中村良顕に学び和歌に秀でた。又大石順教尼
に和歌を指導する。
価格 20,000円
詳細 この作品は前所蔵者であると思われる琴月庵の印が箱に押されています。
紙本絹装丸表具
総丈 タテ185㎝ ヨコ23.5㎝
本紙 タテ112.5㎝ ヨコ21㎝
檜合箱
状態 オレアリ。
作家名 中川紀元
作品名 『墨画聖観音菩薩像』
略歴 中川紀元(なかがわ きげん) 明治25年(1892)~昭和47年(1972)
洋画家。長野の生まれ。旧姓は有賀。本名は紀元次。東京美術学校彫刻科に入学するが、ほどなく中
退。本郷洋画研究所、太平洋画会研究所で洋画を学び、石井柏亭や正宗得三郎に師事する。大正8年
(1919)~10年(1921)渡仏、マティスに師事。大正9年(1920)二科会展で樗牛賞、翌年二科会展で
「立てる女」などが二科賞を受賞。同11年(1922)「アクション」を結成。昭和5年(1930)六潮会を
結成、やがて日本画に転ずる。大正11年(1922)より文化学院、昭和4年(1929)~13年(1938)帝
国美術学校(現武蔵野美術大学)教授として後進の指導に当たった。昭和13年(1938)従軍画家とし
て戦地に赴く。同39年(1964)日本芸術院賞恩賜賞を受賞。
価格 100,000円
詳細 この作品は、箱書に昭和13年1月とあるところから紀元45才の作品です。
紙本 中縁白地唐草文緞子 総縁萌黄地団花文緞子 金軸 仏表具
総丈 タテ209㎝ ヨコ48.5㎝
本紙 タテ137.5㎝ ヨコ33㎝
桐共箱
状態 良好。
作家名 泉智等
作品名 『墨画梅花図』
「何唯梅始終 嵗菊後新粧 清絶一仙境 寿杯花共香 大正九庚申之世 泉涌宗師物外
時年七十二□□」
略歴 泉智等(いずみ ちとう) 嘉永2年(1849)~昭和3年(1928)
真言宗の僧。古義真言宗管長。阿波(徳島)鴨嶋の殿居に生れる。号は物外。十二歳のとき、板野郡
荘厳院の碩道のもとで出家する。また、徳島藩儒柴秋邨に漢籍を学び、高野山や智積院で宗学を研鑽
した。明治6年(1873)徳島泉福寺の住職となり、以来荘厳院・高野山円通寺・長崎延命寺・山口満
願寺・奈良吉祥寺ら三十余ヵ寺に転住した。また函館市高野山、鹿児島市最大乗院などを復興した。
大正12年(1923)高野山派管長・金剛峯寺座主。また、真言宗連合総裁。聡明にして事教二相に通達
し、明治初年から、東奔西走して全国に教化した功績は多大である。また、真言宗京都大学総理・高
野山大学総理となった。
価格 65,000円
詳細 箱書には「大正十三甲子年十二月吉辰表装焉 臥雲道人所蔵□□」とあり、書家の松田道英が所蔵し
ていたものです。
絹本絹装三段表装、軸先象牙
総丈 タテ193㎝ ヨコ50㎝
本紙 タテ108.5㎝ ヨコ35.5㎝
桐合箱
状態 極少シミアリ。
作家名 伊藤墨海賛、丹羽嘉言画
作品名 『般若心経菊石図』
略歴 伊藤墨海(いとう ぼっかい) , ~文化6年(1809)
江戸中・後期の医師・書家。名は茂達。字は子聞。通称は山崎龍眠。号は墨海、秋江。医師定斎(伊
藤玄沢)の次子、兄春沢がはやくに没したため家を嗣ぎ医を業とした。もっとも書法に心を傾け、こ
とに八分に巧みで四方に名を知られた。源達の名で金石に刻した遺跡を多く存している。法名は墨海
彼岸。享年五十八歳、名古屋花車町浄信寺に葬る。現在は平和公園に移されている。
丹羽嘉言(にわ かげん) 寛保2年(1742)~天明6年(1786)
江戸中期の画家。尾張(愛知)の生まれ。名は嘉言。通称は新次郎。号は章甫、謝庵、福善斎、聚珍
堂、名士関。尾張藩士竹中氏の家士、壮年にして家を棄て般若台に芽舎を結び、雲臥禅師に従って禅
理をきわめ、画を描き風流に遊んだ。描くところの山水は元明の風格にかない、その巧妙さは池大雅
と並称された。寡欲で酒をたしなみ、著書に『謝庵遺稿』『福善斎画譜』がある。
価格 150,000円
詳細 箱書には「香積院雲臥和尚般若心経賛丹羽嘉言菊石画」とあるが、当方調査の結果、上記二名の合作
の作品に確定できた。
紙本絹装三段表具 軸先は朱漆で雷電花模様。
総丈 タテ209㎝ ヨコ45㎝
本紙 タテ118㎝ ヨコ39㎝
桐合箱
状態 少ヨゴレ。
作家名 島津斉彬
作品名 一行書 「至誠如神」
『中庸章句 右第二十四章』より
略歴 島津斉彬(しまづ なりあきら) 文化6年(1809)~安政5年(1858)
薩摩藩七十七万石第十二代島津家第二十八代当主。官位は正一位、権中納言、豊後守、薩摩守。江戸
(東京)の生まれ。幼名は邦丸、のち忠方。通称は又三郎。号は惟敬・麟洲。島津斉興の長子。幼少の
頃より曾祖父重豪の教育で蘭学を学ぶ。阿部正弘・徳川斉昭・伊達宗城・松平慶永らと知交があり、
その開明と英知は広く世に知られた。異母弟久光と継嗣(由羅騒動、嘉永朋党事件とも)を争うが、
嘉永4年(1851)43歳で藩主となる。富国強兵に努め製煉所や集成館を作り、電信機・地雷・水雷・
写真・ガス灯・ガラスの試験を試み、水道工事や造船を行い軍事を中心とする近代工業開発に尽力す
る。また幕府から政治才能を高く評価され対外処理問題を委任された。将軍継嗣問題では一橋慶喜を
支援して公武合体の政治路線を推進する。また薩摩藩士であった西郷隆盛や大久保利通を登用するな
ど明治維新の基盤となる人物の育成にも尽力した。文久3年(1868)照国大明神として祀られる。
法諡順聖院殿英徳良雄大居士。
価格 お問い合わせください。
詳細 絹本揉み紙うぶ表具
総丈 タテ182.5㎝ ヨコ41㎝
本紙 タテ115㎝ ヨコ30.5㎝
状態 シミ、オレ、虫食いアリ。
作家名 平岡定海
作品名 木版墨摺 『東大寺二月堂本尊・十一面観世音菩薩像』
平岡定海筆 種字「क(キャ、ka)」
朱印三顆(二月堂・梵字・東大寺印)
略歴 十一面観音
種字はक(キャ、ka)。梵名エーカダシャムカ (एकदशमुख ekadaśamukha)「11の顔」「11の顔を持つも
の」の意は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身の1つであり、六観音の1つでもあ
る。頭部に11の顔を持つ菩薩。
平岡定海(ひらおか じょうかい) 大正12年(1923)~平成23年(2011)
華厳宗の僧侶で歴史学者。東大寺第二一三世別当。奈良の生まれ。昭和10年(1935)得度。
同24年(1949)京都大学文学部史学科卒業。同30年(1955)京都大学大学院修了。同35年(1960)
文学博士。昭和29年(1954)種智院大学講師、同32年(1957)助教授。同41年(1966)大手前女子
大学教授。東大寺上之坊住職、東大寺執事長、華厳宗管長、東大寺別当を歴任した。著書には『東大
寺宗性上人の研究並史料』『東大寺の歴史』『大仏勧進ものがたり』など多数ある。
価格 55,000円
詳細 紙本 中縁黄土地牡丹文金襴 総縁茶絹地雲涌文 金軸 仏表具
総丈 タテ153㎝ ヨコ45.5㎝
本紙 タテ66㎝ ヨコ30㎝
桐共箱為書
状態 少シミアリ。
作家名 藤井實應
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 藤井實應(ふじい じつおう) 明治31年(1898)~平成4年(1992)
浄土宗の僧。岐阜の生まれ。号は光蓮社明誉生阿。道号は法仙。岐阜行基寺の山田淳応のもとで出
家、得度を受ける。大正10年(1921)増上寺の孝誉現有より宗戒両脈を相承した。同14年(1925)
長野紫雲寺に董住。辞山後は浄土宗立布教講習所主事兼講師、豊橋住友青年学校校長、その他国鉄
東京鉄道講習所講師、東海学園高等学校講師などを歴任した。昭和35年(1960)安田恢順のあとを
嗣ぎ岐阜円心寺に晋住、同45年(1970)愛知岡崎大樹寺貫主となり、同53年(1978)大本山増上寺
法主に推戴された。同57年(1982)総本山知恩院に入山、八十五世の法燈を嗣いだ。著書には『拝
む生活』『法然上人御法語抄』『法然上人と一枚起請文』『法然上人の歌』などがある。
価格 350,000円
詳細 紙本絹装三段表具 朱黒漆研出軸先
総丈 タテ209.5㎝ ヨコ49㎝
本紙 タテ131.5㎝ ヨコ33.5㎝
桐合箱
状態 良好
作家名 伊藤義賢
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 伊藤義賢(いとう ぎけん) 明治18年(1885)~昭和44年(1969)
浄土真宗本願寺派の学僧。山口の生まれ。諱は義賢。諡は浄華院。三隅明恩寺の住職。仏教大学(龍
谷大学)を卒業後、平安中学校、北陸中学校、京都女子高等専門学校などの教員を歴任した。また、
明恩寺内に竹下学寮(真宗学寮)を開設し、寺院弟子の教育と著述の出版事業に従事する。『浄土教
批判の批判』を著し、野々村直太郎の浄土教理解を大乗非仏説論・異義異安として批判、これ以後西
本願寺の宗義安心問題に異議を唱え続けた。昭和30年(1955)仏教精神による政治活動を志し仏教民
和党を結成、自ら総裁に就任した。著書には『大乗非仏説論』『神社宗教論』『真宗より観たる大本
教の批判』『暗黒の法城』のほか多数ある。
価格 300,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ195.5㎝ ヨコ47.5㎝
本紙 タテ117.5㎝ ヨコ33.5㎝
桐合箱
状態 本紙オレ、少シミアリ。
作家名 大石順教
作品名 『白衣観音墨画図』 賛「日々是好日」
略歴 大石順教(おおいし じゅんきょう) 明治21年(1888)~昭和43年(1968)
真言宗山階派の尼僧・社会事業家。大阪の生まれ。諱は順教(尼)。俗名はよね。明治38年(1905)大
阪堀江で芸者をしていたとき、堀江六人切り事件の巻添えで両腕を失う。芸妓「妻吉」として三遊亭
金馬一座に加わり旅回りを経験、のち日本画家山口草平と結婚し、口に筆をくわえ日本画を描くこと
を学んだ。昭和8年(1933)高野山で金山穆韶について出家した。同11年(1936)勧修寺に仏光院を
建て、身障者修養道場の自在会を設立。同40年(1965)更生施設いこいの家を創設し、以後世界身体
障害者芸術協会会員として日本で初めて選ばれ活躍、観音の妙智力に生きた女性である。
著書には『妻吉物語』『無手の法悦』『大石順教尼遺作集』がある。
価格 150,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ139㎝ ヨコ32.6㎝
本紙 タテ58㎝ ヨコ29.5㎝
状態 本紙オレ、少シミアリ。
作家名 金山穆韶
作品名 一行書 「以和為貴」
略歴 金山穆韶 明治9年(1876)~昭和33年(1958)
高野山真言宗の僧。富山の生まれ。明治21年(1888)に得度。同34年(1901)高野山大学を卒業し
た。同38年(1905)に同教授となる。大正15年(1926)、中国を視察。昭和15年(1940)、高野山
大学の学長に就任。翌年には、高野山真別処円通寺を事相請伝所とした。同28年(1953)高野山金剛
峯寺座主、高野山真言宗管長に就任。また、事相では泉智寺に学修灌頂を受け、和田大円からは具支
灌頂・瑜伽灌頂を受けるなど、既に昭和4年(1929)までに根本十二流八十四方を伝承したという。
大正13年(1924)には、阿波太竜寺で求聞持法を修した、昭和4年(1929)・15年(1940)・20年
(1945)には八千枚護摩を奉修した。昭和9年(1934)教育功労者として文部大臣表彰を受ける。事
教二相を究めるとともに、肉食妻帯を生涯しなかったことから、特にその高徳は内外に聞こえ、弟子
の養成や伝法は海外にも及ぶ。著書は『弘法大師の仏教観』『秘蔵宝鑰の大綱』『真言密教の教学』
『弘法大師の信仰観』などがある。
価格 35,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ197㎝ ヨコ46㎝
本紙 タテ133㎝ ヨコ33㎝
檜合箱
状態 本紙シミアリ。
作家名 田川鳳朗
作品名 『朝顔墨画図画賛』
「残る蚊や 蚊にもまじらず ひとつづつ 鶯笠□」
略歴 田川鳳朗(たがわ ほうろう) 宝暦12年(1762)~弘化2年(1845)
江戸時代後期の俳人。肥後国(熊本)の生まれ。田川氏。本性は厳島氏。本名は義長。通称は東源。
号には京陵・対竹・鶯笠・蕉風林・自然堂などがある。もとは肥後国熊本藩士。寛政10年(1798)、
37歳で致仕。俳諧を幼少の頃より父鼎や同藩の武久綺石に学ぶ。江戸参府の途次に蝶夢・久村暁台に
対面した。文化13年(1816)本所亀沢に庵を結び、夏目成美・鈴木道彦らと交流した。翌年『芭蕉葉
ぶね』を刊行、真正蕉風を宣揚した。芭蕉一五〇年忌の天保14年(1842)、京の二条家に請うて芭蕉
に「花下大明神」の神号が許され、自身も「花下翁」の称を受けた。桜井梅室・成田蒼虬とともに天
保三大家と称される。俳諧撰集に『鳳朗発句集』『自然堂千句』『髭誕生集』などがある。追善集に
は、一周忌『冬椿集』(自然堂社中編)がある。
価格 160,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ191.5㎝ ヨコ31.5㎝
本紙 タテ124㎝ ヨコ29㎝
状態 表具上部2ヶ所シミ、本紙数ヶ所ウスジミ、少オレアリ。
作家名 隠元隆琦
作品名 「別伝道経結養新堂於佛日寺 見其孝義可喜説偈」
略歴 隠元隆琦(いんげん りゅうき) 明・万暦20年(1592)~寛文13年(1673)
中国明代の禅僧。日本黄檗宗の開祖。道号は隠元。法諱は隆琦。俗称は林氏。黄檗山萬福寺の鑑源興
寿について出家した。その後、金粟山広慧寺の密雲円悟の鉗鎚を受ける。密雲の弟子である費隠通容
の退山の後を承け黄檗に晋んだ。承応3年(1654)長崎興福寺の逸然の招請をうけ来日。また、龍渓
らの斡旋が功を奏して摂津の普門寺に迎えられる。万治元年(1658)将軍家綱に謁見し、幕府から山
城国宇治に寺地を与えられた。新寺は旧を忘れない意味で黄檗山萬福寺と名づけた。温味のある気品
高い書には、木庵・即非と共に黄檗の三筆と称される。著書には『隠元禅師語録十六巻』『普照国師
広録三十巻』『弘戒法儀一巻』のほか多数ある。
別伝道経(べつでん どうきょう) 寛永12年(1635)~正徳2年(1712)
黄檗宗の僧。石見(島根)の生まれ。道号は別伝。法諱は道経。はじめ臨済宗聞渓に投じたが、明暦
元年(1655)頃、遊方して、隠元住山の摂津普門寺に参じた。受業師聞渓を省覲するに当り、隠元よ
り「示別伝禅師省師」の偈を受けている。また、慧林性機の摩耶山佛日寺住持に際し、侍者として従
った。延宝2年(1674)摂津有馬郡巴津川の式盧山大舟寺住山に際し、慧林の印可を受けた。慧林の
黄檗第三代持継席に当り、首座となり、継席御礼に随従する。天和元年(1681)第五戒開に尊証阿闍
梨となった。宝永2年(1705)佛日寺第三代慧極道明退院ののち住持となり、以後、慧林法系の龍興
派下が住持となる例を開き、第二代住持と称された。のち河内出雲井郡の金龍山神護寺開山となる。
著書に『盧山別伝禅師鉄蒺藜一巻』『応頂山勝尾寺縁起二巻』『応頂山勝尾寺続縁起二巻』がある。
価格 2,000,000円
詳細 紙本絹装三段表具 本偈は『隠元全集松隠二集』に掲載されている。
総丈 タテ134㎝ ヨコ91.5㎝
本紙 タテ29.5㎝ ヨコ78㎝
桐合箱
状態 少虫穴アリ。
作家名 中井竹山
作品名 一行書 「白雲満地無人掃」
魏野『尋隱者不遇』
略歴 中井竹山(なかい ちくざん) 享保15年(1730)~文化元年(1804)
江戸時代中期の儒学者。大坂の生まれ。名は積善。字は子慶。通称は善太。号は竹山・同関子・渫翁
・雪翁。中井甃庵の長子。履軒の兄。五井蘭洲に師事して宋学を奉じた。『非徴七巻』は朱子学の立
場から徂徠学を攻撃したものであるが、寛政異学の禁に当たっては、頼春水らと共に官学の側に立っ
た。父の死後、天明2年(1782)懐徳堂の学主となり講説に従った。著書には『逸史十三巻』『草茅
危言八巻』『非徴七巻』『詩律兆附余考』のほか多数ある。
価格 80,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ203.5㎝ ヨコ41.5㎝
本紙 タテ124㎝ ヨコ26㎝
桐合箱
状態 少虫穴アリ。
作家名 石田敬起
作品名 『大根図和歌賛』
漢詩「一安卵累危千載定鴻基 嗟汝賛嚢續名譽天下知 龍谷山主題(広如) 辛卯冬賦贈石田敬起」
和歌「わがなすと おもふは愚 草も木も 四季折々の 時を得て咲」
略歴 石田敬起(いしだ けいき) 天明4年(1784)~万延元年(1860)
江戸時代後期の商人・財政家。浄土真宗本願寺派の門徒。摂津豊島郡の生まれ。号は知白斎。法名は
証誠。通称は大根屋小右衛門。大坂天満の豪商大根屋に入婿。西本願寺をはじめ岸和田・富山・尼崎
などの諸藩の財政改革を成功させた。天保元年(1830)興正寺との本末争い、三業惑乱によって疲弊
した西本願寺財政危機を解消するため、同寺二十世広如に起用され、財政改革を行った。改革満了後
も本山財政の健全化を目指し、三季冥加の上納など恒常収入の確立に努めた。この間、広如より賞詞
を受け、染筆の詠歌や漢詩を与えられた。
広如(こうにょ) 寛政10年(1789)~明治4年(1871)
江戸時代後期の浄土真宗本願寺派の僧。西本願寺二十世。諱は本了、光沢。号は広如。諡は信法院。
文化6年(1809)得度、河内顕証寺の住職となったが、文政2年(1819)西本願寺に入り法嗣となる。
同9年(1826)十九世本如上人入寂により継職した。文久3年(1863)直諭書を発して勤王の大義を論
じ、朝廷に1万両を献上。明治元年(1868)御所の警備に当たり、また教書を作り門末を教諭、幕末
維新期の教団運営を指導した。
価格 350,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ157㎝ ヨコ38㎝
本紙 タテ96.5㎝ ヨコ26.5㎝
桐合箱
状態 少シミアリ。
作家名 鰲巓道契
作品名 「無(字曰) 趙州處(露カ)刃釼 寒霜光焔々 □□」
『寂室元光法語』(趙州無字)
略歴 鰲巓道契(ごうてん どうかい) 文化11年(1814)~明治24年(1891)
臨済宗の僧。尾張(愛知)熱田の生まれ。道号は鰲巓。室号は瑞応軒。俗称は伊藤、関と自称する。
10歳、名古屋禅隆寺模林について祝髪受戒。16歳、肥後見性寺に掛搭し、蘇山玄喬に随侍、その法を
嗣ぐ。嘉永元年(1848)豊後臼杵の多福寺の住職となる。明治元年(1868)名古屋徳源寺の師席を嗣
ぐ。同4年(1871)妙心寺に視篆し初代管長となり、諸方に巡化し盛んに法筵を開いた。
価格 180,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ112㎝ ヨコ49㎝
本紙 タテ25㎝ ヨコ44.5㎝
桐合箱
状態 オレアリ。
作家名 花田凌雲
作品名 『墨松図』
略歴 花田凌雲(はなだ りょううん) 明治6年(1873)~昭和27年(1952)
大正・昭和時代の浄土真宗本願寺派の学僧。広島の生まれ。諱は凌雲。号は衆甫。諡は深解院。壮年
の頃、新聞記者となり清沢満之らの精神主義を批判した論説を「六条学報」などへ投稿したのを契機
に、興正寺円頓学寮の講師を務めた。安居で副講として大正4年(1915)「唯識三十頌」、同12年(
1923)には「大乗論部の縁起説」を講じた。大正13年(1924)勧学に進み、昭和3年(1928)安居で
「浄土論」を講じた。昭和5年(1930)から同10年(1935)まで安居綜理に就任した。昭和6年(
1931)から同14年(1939)まで龍谷大学学長に就任。また、宗学院院長、勧学寮寮頭など教団の要職
に就任した。著書には『仏教提要』『仏教倫理概論』『唯識要義』のほか多数ある。
価格 80,000円
詳細 紙本紙装丸表具。昭和8年凌雲50才の余技に画かれた作品です。
総丈 タテ202㎝ ヨコ44.5㎝
本紙 タテ133㎝ ヨコ33㎝
状態 少オレ、表具少虫穴アリ。
作家名 井上円了
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 井上円了(いのうえ えんりょう) 安政5年(1858)~大正8年(1919)
明治・大正時代の仏教哲学者。真宗大谷派の僧。越後浦(新潟)の生まれ。父は越後慈光寺の円悟。
諱は襲常、円了。幼名は岸丸。号は甫水。明治20年(1887)哲学館(東洋大学)を、翌年哲学書院を
設立。国粋主義に基づく仏教擁護、キリスト教批判を展開。同29年(1896)「仏教哲学系統論」で文
学博士となる。民間の迷信打破のため妖怪研究を行い、日本・中国の各地を遊説して仏教伝道に努め
た。著書には『仏教活論3巻』『真理金針3巻』『妖怪学講義8巻』『宗教哲学』『忠孝活論』など多
数ある。
価格 250,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ187㎝ ヨコ43㎝
本紙 タテ130㎝ ヨコ31.5㎝
状態 少シミ、少虫穴アリ。
作家名 岡崎邦輔
作品名 和歌
「ゆみはりの 月も雲間に きらめきて 秋風さむし 長篠の原 邦輔」
略歴 岡崎邦輔(おかざき くにすけ) 嘉永6年(1853)~昭和11年(1936)
明治~大正時代の政治家・実業家。和歌山の生まれ。号は晩香。旧姓は長坂。国事に奔走していた
従兄伊達宗興・陸奥宗光らの感化を受けて成長。明治21年(1888)駐米公使となった陸奥に随って
渡米、留学した。同24年(1891)陸奥が代議士を辞任するとその補欠選挙に立候補するため岡崎左
衛門の家に入籍、被選挙権を得て、初当選を遂げた。以後紀州派の中心人物として陸奥の議会政略を
支援し、独立俱楽部を結成した。第4次伊藤内閣時には星亨逓信相のもとで官房長に就任した。犬養
毅、尾崎行雄らと護憲運動を起こし、護憲三派内閣の公約、普選法をめぐる貴衆両院の対立を調停、
同法成立に大きく寄与した。詩歌をよく好み『晩香歌集』岡崎邦輔遺稿同先生景慕会(昭和17年)が
ある。
価格 150,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ202㎝ ヨコ52㎝
本紙 タテ128㎝ ヨコ39.5㎝
桐合箱
状態 少シミ
作家名 陸奥宗光
作品名 徒然草から第三十八段『名利につかはれて』 第九十二段『或人、弓射る事を習ふに』
略歴 陸奥宗光(むつ むねみつ) 弘化元年(1844)~明治30年(1897)
明治時代の政治家・外交官。伯爵。和歌山の生まれ。幼名は牛麿。伊達陽之助、陸奥小次郎などと称
した。父は和歌山藩士伊達藤二郎宗広。幕末期に脱藩して坂本竜馬の知遇を得て海援隊に加わる。維
新後、外務大丞・大蔵省租税頭・元老院議官などを歴任したが、西南戦争時に西郷軍に通謀した疑い
で禁獄5年の刑を受ける。特赦後は欧米に渡り、駐米公使としてメキシコとの対等条約の締結に成功
する。第2次伊藤内閣時の外相では治外法権の撤廃を内容とする条約改正を実現したほか、日清戦争
の講和条約、三国干渉などの処理や議会対策に大きな成果を残した。著書には『蹇蹇録』がある。
価格 350,000円
詳細 紙本絹三段表装。箱書は宗光の従兄弟にあたる政治家岡崎邦輔(号は晩香)である。
総丈 タテ214.5㎝ ヨコ40㎝
本紙 タテ135㎝ ヨコ29㎝
桐合箱
状態 良好。
作家名 篠崎小竹
作品名 漢詩七絶三行
「飛鶴青松算壽齢 芝蘭玉樹秀階庭 終年楽善全天爵 即是人間南極星 小竹七十老人□□」
略歴 篠崎小竹(しのざき しょうちく) 天明元年(1781)~嘉永4年(1851)
江戸後期の儒者・書家。豊後(大分)の生まれ。名は弼。字は承弼。号は小竹、畏堂、南豊。幼時
から篠崎三島に従学し、偉才を認められてその養子となる。江戸に出て尾藤二州、古賀精里に学ぶ。
帰坂後、父三島に代って子弟に教授した。その学は徂徠学から朱子学に転じたが、また詩文および
書を善くした。仕官を好まなかったが三島以来の縁故で淡路領主稲田氏の賓師となった。
著書には『四書松陽講義五巻』『名教館記一巻』『唐詩遺四巻』『小竹詩集』など多数ある。
価格 160,000円
詳細 絖本絹装丸表具 軸先堆朱、最晩年の見応えのある絖本の大作です。
総丈 タテ214㎝ ヨコ61.5㎝
本紙 タテ150㎝ ヨコ49㎝
桐合箱
状態 良好。
作家名 厭求
作品名 警覚偈一行書 「生死事大無常迅速」
略歴 厭求(えんぐ) 寛永10年(1633)~正徳5年(1715)
江戸前・中期の浄土宗の僧。京都の生まれ。諱は貞憶、厭求。号は真蓮社広誉心阿。
正保2年(1645)京都専念寺の信誉のもとで出家、江戸霊巌寺の珂山から宗戒両脈を相伝した。明暦
3年(1657)明暦の大火を契機に世間の無常を感じ、庶民教化の行脚に旅立つ。近畿地方はもとより
、広島・仙台などでも布教し、寺院に定住せず念仏往生を願った。のち摂津有馬(兵庫)の極楽寺に
住した。著書には『念仏安心1冊』『徒然要草7巻』『厭求和尚法語』がある。
価格 600,000円
詳細 紙本絹装上表具、著名に「八十老翁厭求書」とあるところから、世寿八十一歳最晩年の書である。
総丈 タテ172.5㎝ ヨコ33㎝
本紙 タテ101㎝ ヨコ22㎝
状態 オレアリ。
作家名 京極高琢
作品名 書幅 「萬里鶴冲天」
略歴 京極高琢(きょうごく たかてる) 文化8年(1811)~慶応3年(1867)
江戸後期の大名。讃岐多度津藩京極家第五代当主。丸亀(香川)の生まれ。幼名は辰之丞、のち内膳
とも称す。父は多度津藩京極家第四代当主京極高賢。官位は従五位下、壱岐守。天保5年(1834)に
多度津湛甫(築港)の大工事を実施した。約5年の歳月と巨費を投じ、天保9年(1838)に完成。瀬戸
内海屈指の良港であった。戒名雲関院殿前壱州刺史透翁道信大居士。
価格 売却済み
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ107.5㎝ ヨコ62.5㎝
本紙 タテ38.5㎝ ヨコ56㎝
状態 イタミ、虫穴、シミアリ。
作家名 松野梅山、智道賛
作品名 『楊柳白衣観音菩薩図』
智道賛 「捨普陀落莊厳咄 彌天柳靡大悲風」
略歴 松野梅山(まつの ばいざん) 天明3年(1783)~安政4年(1857)
江戸後期の画僧。尾張(愛知)の生まれ。名は栄興。法名は純恵。別号に雪香斎、無我道人。岩井正
斎に絵を学ぶ。尾張の常満寺、美濃の浄導寺に住み、法眼となる。仏画、花鳥獣画を得意とした。
智道(智幢 ちどう) ?~元治元年(1864)
江戸後期の真宗大谷派の学僧。美濃須脇(岐阜)の生まれ。諱は智道、智幢、知道。号は松庵、拙庵
。美濃覚明寺二十世善海の子。東本願寺の高倉学寮で学ぶ。天保3年(1832)、4年(1833)夏安居副
講で寮司として「法苑義林章唯識章」「解深密経」を講じ、擬講となる。弘化4年(1847)夏安居内
講で「成唯識論」を嘉永3年(1850)安居秋講で「尊号真像銘文」を講じ、安政6年(1859)嗣講に進
む。著書には『解深密経聞書3巻』『行信義林』『入出二門偈随聞誌3巻』などがある。
価格 550,000円
詳細 紙本絹三段表装
総丈 タテ182.5㎝ ヨコ41.5㎝
本紙 タテ99㎝ ヨコ28㎝
桐合箱
状態 少シミ、オレアリ。
作家名 秦テルヲ
作品名 『楊柳白衣観音菩薩図』
略歴 秦テルヲ(はだ てるを) 明治20年(1887)~昭和20年(1945)
明治~昭和時代の日本画家。広島の生まれ。本名は輝男。明治末期の京都における新美術運動「黒猫
会」「仮面会」に津田青楓、土田麦僊、小野竹喬らと関与。酒と女に溺れながらも「血の池」「吉原
の女」「淵に佇めば」などの名作を描く。のち結婚して生活も落ち着き、大正10年(1921)からは京
都南部の山奥の村で仏画研究に携わり、多くの仏画を描いた。
価格 400,000円
詳細 紙本絹三段表装、白チョークで描かれている。
総丈 タテ155㎝ ヨコ29.5㎝
本紙 タテ68.5㎝ ヨコ18.5㎝
桐合箱
状態 良好
作家名 山崎弁栄
作品名 『持蓮観音菩薩・虚空蔵菩薩・毘沙門天図』
略歴 山崎弁栄(やまざき べんねい) 安政6年(1859)~大正9年(1920)
明治・大正時代の仏教思想家。浄土宗の僧。下総沼南(千葉)の生まれ。諱は弁栄。幼名は啓之介。
号は仏陀禅那、無所得子、不可知童子。明治12年(1879)出家し、千葉東漸寺の大谷大康に師事。
同14年(1881)東京に遊学。翌年筑波山中で念仏三昧して奇瑞を得たという。明治27年(1894)イ
ンド仏跡を巡拝、帰国後は全国各地で如来光明主義を主張して光明会を創設し、口称三昧による弥陀
合一を説いた。著書には『宗祖の皮髄』『道詠集』『無辺光』『無量光寿』など多数ある。
価格 700,000円
詳細 紙本緞子上表具
総丈 タテ201㎝ ヨコ46㎝
本紙 タテ130㎝ ヨコ30.5㎝
状態 線香によるヤケ跡、虫穴アリ。
作家名 井上円了
作品名 『幽霊図画賛』
賛「幽霊本即物 畢竟是空華 顧撿其真躰 請看枯尾花」
略歴 井上円了(いのうえ えんりょう) 安政5年(1858)~大正8年(1919)
明治・大正時代の仏教哲学者。真宗大谷派の僧。越後浦(新潟)の生まれ。父は越後慈光寺の円悟。
諱は襲常、円了。幼名は岸丸。号は甫水。明治20年(1887)哲学館(東洋大学)を、翌年哲学書院を
設立。国粋主義に基づく仏教擁護、キリスト教批判を展開。同29年(1896)「仏教哲学系統論」で文
学博士となる。民間の迷信打破のため妖怪研究を行い、日本・中国の各地を遊説して仏教伝道に努め
た。著書には『仏教活論3巻』『真理金針3巻』『妖怪学講義8巻』『宗教哲学』『忠孝活論』など多
数ある。
価格 売却済み
詳細 関防印に「大正七午年」とあるところから、円了60才。満州・大連への遊説前最晩年の作品と言えま
す。
紙本紙装丸表具
総丈 タテ196㎝ ヨコ43㎝
本紙 タテ134㎝ ヨコ33㎝
状態 少オレアリ。
作家名 望月信亨
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 望月信亨(もちづき しんこう) 明治2年(1869)~昭和23年(1948)
明治~昭和時代の仏教学者。浄土宗の僧。知恩院第八十二世。福井の生まれ。幼名は勝治郎。字は
望無雲、桜雨、壺腸。号は晃蓮社昱誉明阿。12歳で出家、明治26年(1893)神戸藤之寺の望月有成の
養子となる。同32年(1899)浄土宗高等学院教授。明治44年(1911)浄土宗執網、藤之寺住職。大
正3年(1914)宗教大学学長兼教授。昭和元年(1926)大正大学教授、同5年(1930)学長に就任(
~32)。同17年(1942)仏教文化研究所所長。同20年(1945)浄土宗管長、同22年(1947)学士院
会員。『大日本仏教全書』『仏教大辞典』を編纂刊行した。著書には『法然上人全集(編)』『仏教
大年表』『大日本仏教全書150巻(編)』『仏教大辞典7巻(編)』などがある。
価格 150,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ181.5㎝ ヨコ43.5㎝
本紙 タテ134㎝ ヨコ31.5㎝
状態 少オレアリ。
作家名 五代友厚
作品名 『墨竹画賛図』 賛「雨後中呼風」
略歴 五代友厚(ごだい ともあつ) 天保6年(1835)~明治18年(1885)
幕末~明治期の薩摩藩士・政商。薩摩(鹿児島)の生まれ。諱は友厚。幼名は徳助。通称は才助。雅
号は松陰。父は薩摩藩士五代秀堯。贈正五位、勲四等。明治維新後、外交官から実業界に転じ、政商
として活躍。大阪株式取引所・大阪商工会議所の創設、製鋼・貿易・銀行・鉄道会社の設立に尽力。
大坂経財界の重鎮の一人。
価格 250,000円
詳細 絖本絹装丸表具 明治5年37才、南都での作品。
総丈 タテ203㎝ ヨコ51㎝
本紙 タテ117.5㎝ ヨコ38.5㎝
桐合箱
状態 少オレアリ。
作家名 真智
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 真智(しんち) 永正元年(1504)~天正13年(1585)
戦国・安土桃山時代の真宗高田派の僧。諱は真智。号は常盤井宮。諡は喜雲院宮。常盤井宮恒直親王
の3男。永正8年(1511)伊勢専修寺の真慧の要請により入寺、翌年真慧が没すると、越前・三河の門
徒の支援を受けて、応真と住持職を争った。大永2年(1522)師弟関係を結ぶことで和睦し、応真が
専修寺を継職したが、真智は越前熊坂に新たに寺を建立して専修寺と称した。
価格 3,500,000円
詳細 紙本絹三段表装
総丈 タテ152.5㎝ ヨコ44㎝
本紙 タテ78㎝ ヨコ23㎝
状態 当初の表具の状態のままです。巻留少虫穴アリ。
一般的に考えられている没年は天正十三年とされているが、ここには天正十四年とあるところから、
今後生没年には再考を要する作品と言えます。
作家名 千丈実巌
作品名 四佛名号
略歴 千丈実巌(せんじょう じつがん) 享保7年(1722)~享和2年(1802)
江戸中・後期の曹洞宗の僧。近江(滋賀)の生まれ。諱は実巌。道号は千丈。11歳で得度し、内典・
外典に精通する。明和3年(1766)信濃大沢寺に入り、安永8年(1779)同国松代の長国寺17世の住
職となる。寛政4年(1792)近江に無名庵を創建し、また華厳寺を開創した。享和元年(1801)海蔵
院に隠居。詩・文に優れ著述も多い。著書には『杓木編』『千丈実巌和尚語録3巻』『幽谷余韻30巻
』など多数ある。
価格 150,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ119㎝ ヨコ36.5㎝
本紙 タテ44㎝ ヨコ28.5㎝
状態 巻留めイタミアリ。
作家名 大西良慶
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 大西良慶(おおにし りょうけい) 明治8年(1875)~昭和58(1983)
明治~昭和期の北法相宗の僧。奈良の生まれ。幼名は広治。通称は清水さん。号は無隠。多武峰談山
神社神職の次男として生まれる。明治22年(1889)九条家の嘱望で興福寺再興のために入寺し、千早
定朝に従って出家。翌年法隆寺の佐伯定胤に唯識を学ぶ。同32年(1899)興福寺231世、同37年(
1904)法相宗管長、大正3年(1914)清水寺住職となり、興福寺を兼務。昭和40年(1965)清水寺を
本山とする北法相宗を設立し、初代管長に就任。諸宗に造詣が深く、仏教界の要職を歴任し、中国仏
教界との交渉をはじめ、社会教化事業・平和運動にも尽力。同50年(1975)仏教伝道功労賞、翌年朝
日社会福祉賞などを受賞。大正4年(1915)から48年間孟蘭盆法話を続け、良慶節といわれる説法で
親しまれた。著書には『観音経のこころ』『信仰と人生』『大西良慶選集6巻』などがある。
価格 500,000円
詳細 この作品は、箱書の自題に「六字寶號」とある様に、若き日従軍僧として日露戦争での203高地の
様相をこの目で見てこられた大僧正の最晩年101才の御名号である。
紙本緞子三段上表具
総丈 タテ205㎝ ヨコ49.5㎝
本紙 タテ129.5㎝ ヨコ33.5㎝
桐共箱
状態 シミアリ。
作家名 楽山
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 楽山(ぎょうざん) 文化8年(1811)~弘化3年(1846)
江戸後期の融通念仏の行者。和泉堺(大坂)の生まれ。諱は晃山、楽山。通称は蓮華場。
字は俊照、照河。号は観地院。7歳で浄谷寺の章山について得度、俊照晃山と称した。章山没後、
大和稗田の常楽寺の詮海に師事し楽山と改名。天保元年(1830)河内八尾の清慶寺に入住する。
同11年(1840)より日課念仏を勧進し、その数は6万人に達したという。弘化元年(1844)「融
通念仏縁起」を開板した。著書には『融通述懐抄1巻』がある。
価格 120,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ184㎝ ヨコ37㎝
本紙 タテ121.5㎝ ヨコ28.5㎝
杉合箱
状態 少虫損
作家名 霊応(増上寺四十九世)
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 霊応(れいおう) ?~安永6年(1777)
江戸中期の浄土宗の僧。近江君ヶ畑村(滋賀)の生まれ。諱は霊応。号は安蓮社豊誉民阿蒙光触。
近江の金竜寺で出家し、のち江戸小石川伝通院の照誉如空に師事。享保7年(1722)五重を相伝、同
10年(1725)宗脈を得た。寛保元年(1741)了般に布薩戒を受け、増上寺学頭となる。武蔵(埼玉)
の浄国寺25世、常陸の常福寺46世、伝通院36世を歴任し、安永2年(1773)増上寺49世に就任し大僧
正となる。当時一向宗徒が「浄土真宗」の号を用いたので、これの停止を幕府に訴え、以後両宗の宗
名論争が活発になった。天保5年(1834)丹波成松の西念寺向誉の箱裏書きがある。
価格 お問い合わせください。
詳細 紙本緞子上表具
総丈 タテ209㎝ ヨコ43.5㎝
本紙 タテ125㎝ ヨコ29㎝
桐元箱
状態 良好
作家名 梅原真隆
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 梅原真隆(うめはら しんりゅう) 明治18年(1885)~昭和41(1966)
明治・昭和期の浄土真宗本願寺派の学僧。富山の生まれ。諡は顕真院。富山専長寺の住職。仏教大学
(竜谷大学)教授・学監を兼任。昭和4年(1929)竜谷大学を辞職して仏教文化研究のために顕真学苑
を設立、『顕真学報』や雑誌『親鸞研究』『道』を主催した。同12年(1937)勧学、のち本願寺派執
行・勧学寮寮頭・伝道院顧問を歴任。この間友松円諦と指方立相論・極楽浄土不認論について論争し
た。参議院議員当選1回。同26年(1951)富山大学学長に就任。著書に『御伝鈔の研究』『梅原真隆
選集32巻』など。
価格 250,000円
詳細 紙本絹三段表装
総丈 タテ193㎝ ヨコ49.7㎝
本紙 タテ130.5㎝ ヨコ34㎝
桐合箱
状態 良好
作家名 祐天上人
作品名 細字名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 祐天(ゆうてん) 寛永14年(1637)~享保3年(1718)
江戸前・中期の浄土宗の僧。陸奥磐城(福島)の生まれ。諱は祐天。字は愚心。号は明蓮社顕誉。
江戸増上寺の檀通のもとで修行し、諸国を巡化して念仏布教に務めた。元禄12年(1699)下総(千
葉)大巌寺に入る。同国飯沼(茨城)弘経寺を経て、宝永元年(1704)江戸伝通院の住持、正徳元年
(1711)増上寺36世に就任した。将軍徳川綱吉やその母桂昌院の帰依が厚く活き仏として尊崇され、庶
民の中にも多くの信者を得たという。
価格 お問い合わせください。
詳細 縦に85行、横に41段、合計三千四百八十五行の細字名号が書かれ、最後に「祐天」の署名と花押が
入れられている。
紙本絹表具三段装
総丈 タテ163㎝ ヨコ38.5㎝
本紙 タテ88㎝ ヨコ26.5㎝
桐合箱
状態 本紙に数個所虫食いの跡がある状態のまま台張りされ、中縁に藍地牡丹文金襴の丸表具が施されてい
る。大切に取り扱われていたことが伺われる。
作家名 大石隆子
作品名 短歌
「日をあみて しみじみ母と かたりしに 春のおもひで なつかしきかな」
略歴 大石隆子(おおいし たかこ) 明治34年(1901)~平成13年(2001)
書家。東京の生まれ。尾上柴舟、丹羽海鶴に師事。日展特選・朝倉賞、文部大臣賞、日本芸術院賞
受賞。勲四等宝冠章受章。日展参事・読売展名誉会員・日本かな書道会参与・全日本書津連盟名誉
顧問・栴檀社主宰。
価格 85,000円
詳細 紙本絹装丸表具
料色小色紙
左 薄黄土色銀泥唐草牡丹文様 右 薄萌葱色金泥雁に流水文様
総丈 タテ117㎝ ヨコ50㎝
本紙 タテ14.5㎝ ヨコ26.5㎝
桐自題共箱
状態 僅かにシミがありますが、気にかからない程度です。
作家名 稲岡覚順(黒谷光明寺第七十二代法主)
作品名 一行書 「暢発和雅音」
佛説無量寿経巻下 康僧鎧訳
略歴 稲岡覚順(いなおか かくじゅん) 明治38年(1905)~平成7年(1995)
昭和期の浄土宗の僧。山梨の生まれ。号は成蓮社等誉正阿不無為。昭和2年(1927)埼玉県川口市
川口西福寺に董住。同21年(1946)浄土宗宗議会議員となり、議長を経て小林大巌内局のあとをうけ
宗務総長(二期)に就任したが、その間浄土宗合同以降の宗門改革に尽瘁。地方教化センターの設置
をはじめ、日中友好浄土宗協会の設立、沖縄に袋中園を設置、また黒谷寮・浄土学寮、明照会館の設
置など宗門行政のうえに多くの業績をのこすとともに、黒谷浄土宗との合同にも力を用いた。
昭和54年(1979)大本山黒谷金戒光明寺法主に推戴され、第72世の法燈をついだが、平成6年(1994
)退任。
価格 20,000円
詳細 表具絹本三段装
総丈 タテ195㎝ ヨコ36.5㎝
本紙 タテ128㎝ ヨコ33.5㎝
桐合箱
状態 良好
作家名 高楠順次郎
作品名 漢詩二行
「無筆而画者形影也 無脚而馳者感應也 八葉峰中雪頂 花押」
佐藤一斎『言志四録㈣ 言志耋録』(第121条感応の理七則その六)
略歴 高楠順次郎(たかくす じゅんじろう) 慶応2年(1866)~昭和20年(1945)
大正・昭和期の仏教学者。広島の生まれ。幼名は梅太郎。号は篝村・雪頂。諡は宏学院釈順成。学生
時代は小林洵を名乗る。神戸の高楠家の養嗣子となる。ヨーロッパ留学中にオックスフォード大学の
マックス・ミュラーに師事、インド学、梵語学を学んだ。『大正新脩大蔵経』『国訳南伝大蔵経』の
出版や、『大日本仏教全書』の監修などに活躍、また仏教主義教育に傾注し武蔵野女子学院を設立、
東洋大学学長を務めた。昭和19年(1944)文化勲章受賞。
価格 150,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ201㎝ ヨコ45.5㎝
本紙 タテ137.5㎝ ヨコ33.5㎝
桐合箱
状態 美品
作家名 谷三山
作品名 一行書 「脩徳者預細門」
略歴 谷三山(たに さんざん) 享和2年(1802)~慶応3年(1867)
江戸後期の儒者。奈良の生まれ。諱は操。通称は新助、後に昌平と改む。別号に淡庵・繹斎等。
幼児目及び耳を疾み、聴力を失ったが読書勉学倦むことなく学識地方に著しく聞こえ、家塾(興譲館
)を開いて弟子を薫育し皇道、五常、忠孝を奨励した。後高取藩主の聘に応じて出仕、藩治のために
扶翼するところが多かった。晩年ついに明を失するに至ったが意気毫も衰えず、文久3年(1863)在
京の諸侯の尊王攘夷の急務を献策した。また山陵の荒廃を歎じて修補に尽力した。大正6年(1917)
正五位を贈られる。
価格 250,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ191.5㎝ ヨコ35.5㎝
本紙 タテ132㎝ ヨコ28㎝
桐合箱
状態 少ヨゴレ
作家名 森川杜園
作品名 『尉と姥図』
略歴 森川杜園(もりかわ とえん) 文政3年(1820)~明治27年(1894)
幕末・明治期の木彫家。奈良井上町の生まれ。幼名は友吉。字は扶疏。杜園と号す。13歳で内藤其淵
に画を学ぶ。天保7年(1836)奈良を訪れた柴田是真に勧められ奈良人形をはじめる。
安政3年(1856)春日若宮大宿所前絵師職、ついで春日有識奈良人形師の名を許される。正倉院御物
の模造にも従事。内国勧業博やシカゴ万博に出品し活躍。伴林光平に和歌を学び、大蔵流狂言の名手
でもあった。
価格 650,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ187㎝ ヨコ27.5㎝
本紙 タテ94.5㎝ ヨコ24.5㎝
状態 少虫穴
作家名 松平慶憲
作品名 一行書「法古無色」
略歴 松平慶憲(まつだいら よしのり)文政9年(1826)~明治30年(1897)
江戸後期の大名。播磨明石藩松平(越前)家第9代当主。初名は直憲。幼名は濤次郎。別号に鶴雲。
父は第7代当主松平斉韶。嘉永6年(1853)アメリカ使節ペリーの来航に際し、大蔵谷八幡浜、出崎
浜、舞子浦に砲台を築き、洋式砲術も取り入れる。また、明石藩より兵二百名が品川を警固。
安政元年(1854)ペリー再来時には八千人が動員され神奈川を警備した。第二次長州征討や鳥羽・
伏見の戦いにも参陣しており、官位は従四位上侍従、兵部大輔、左近衛権中将。
価格 1,000,000円
詳細 紙本金襴緞子絹装丸表具。軸先丸に三葉葵紋(金泥)。
総丈 タテ189㎝ ヨコ38.5㎝
本紙 タテ128㎝ ヨコ28.5㎝
状態 少オレ
作家名 香誉祐海
作品名 『勧修百万遍十界一心願生西方作福念佛図説』
略歴 祐海(ゆうかい) 天和2年(1682)~宝暦10年(1760)
浄土宗の僧。奥州岩城(福島)の生まれ。号は拈蓮社香誉信阿。字は祐海。24歳で布薩戒を授かり、
増上寺で修学を重ねた。伯父にあたる増上寺第三十六世顕誉祐天の遺跡を残したいとの思いから、
住職になった善久院に祐天寺の寺号を許可され、祐天を開山として自らは二世となり、阿弥陀堂建立
をはじめ境内整備に尽力した。
裕海が制作したとされる。「作福念佛図説」は画上部に「當曼中臺三尊略相」として当麻曼荼羅が
画かれている。阿弥陀三尊の仏前に上品上生が画かれている。中部には「寶池九品生略」が画かれて
おり、蓮池の中央から右に上品中生、中三品、中央から左に上品下生、下三品と画かれている。
蓮池の中央には蓮の花の上に「心」の文字が画かれており、その茎が下部の「円頓観心十界図」に
続いている。蓮の茎を追っていくと増上寺第三十六世顕誉祐天の名号「南無阿弥陀仏」(模写した
もの)に繋がっており、「願往生」とさらに下に円形の二河白道図に繋がっている。円形の上部は
白道、下部は此土が画かれている。円形の中央に「一心」の文字があり、白道から此土(現世)さら
に十界へと各線で繋がっている。下部周囲の「十界図」は右上から順に佛界・縁覚界・天界・修羅界
・餓鬼界・地獄界・畜生界・人間界・聲聞界・菩薩界が画かれている。
価格 600,000円
詳細 木版筆彩著色、仏菩薩金箔貼付。紙本紙装丸表具、軸先銅に鍍金。祐天寺蔵版印施とアリ。
総丈 タテ132㎝ ヨコ36.5㎝
本紙 タテ62㎝ ヨコ25.5㎝
状態 表具上部少虫穴
作家名 上田照遍
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 上田照遍(うえだ しょうへん) 文政11年(1828)~明治40年(1907)
真言宗の学僧。徳島の生まれ。諱は照遍。字は竜眼。号は無庵。天保12年(1841)阿波千光寺の仁恵
に師事し、同14年(1843)正興庵の百光に両部大法を受ける。その後諸師を歴訪し顕密二教を学び、
安政3年(1856)河内の延命寺に入り、宝肝に受法し新安祥寺流の正嫡となる。明治初め廃仏毀釈に
際しその非を説いて護法に努めた。明治11年(1878)高野山大学林教師、同33年(1900)大僧正。
同36年(1903)祖風宣揚会会長。著書には『五部秘経伝授要路五巻』『安流聖教目録三巻』『真言宗
意安心弁二巻』『浄土門秘要』など多数ある。
価格 250,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ192㎝ ヨコ40㎝
本紙 タテ110㎝ ヨコ26㎝
状態 表具巻留に少虫穴
作家名 霊巌
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 霊巌(れいがん) 天文23年(1554)~寛永18年(1641)
戦国~江戸前期の浄土宗の僧。静岡の生まれ。知恩院三十二世。諱は肇叡・霊巌。字は松風。号は
檀蓮社雄誉。沼津氏勝の三男。駿河浄運寺の増誉のもとで出家。下総大巌寺の貞把・雲潮のもとで
修学し宗戒両脈を受け、天正15年(1587)同寺三世を継ぐ。諸国を巡化して多くの寺院を建立し、寛
永元年(1624)江戸深川に霊巌寺を開いて学徒を教導した。同6年(1629)知恩院三十二世に就任。
後水尾上皇に進講し徳川家の帰依も厚く、知恩院の火災の際将軍家光の後援を得て伽藍を復興。寛永
17年(1640)浄土三部経や『選択集』などを開板し布教に専心した。
著書には『精義集(松風抄)六巻』『伝法指南一巻』がある。
価格 80,000円
詳細 紙本紙装丸表具 、表に「晴雲院慶授之」と読める為書きアリ。
総丈 タテ83.5㎝ ヨコ24㎝
本紙 タテ41㎝ ヨコ16㎝
状態 ヤケ・少剥落アリ。古い段階での補修跡アリ。
作家名 山本達雄
作品名 漢詩五絶
「一聲長在身 萬恨重經心 潤古清風起 至終涼月沈 達□□」
略歴 山本達雄(やまもと たつお) 安政3年(1856)~昭和22年(1947)
銀行家・政治家。大分の生まれ。号は竹溪。慶應義塾、三菱商業を卒業後、三菱会社に入り明治18年
(1885)川田小一郎の世話で日本郵船会社に移ってから同23年(1890)日本銀行に入った。第5代日本
銀行総裁を務めた後、大蔵大臣、農商務大臣、内務大臣を歴任。明治36年(1905)には貴族院議員に
勅選され男爵に叙された。昭和2年(1927)には立憲民政党の最高顧問となった。
価格 80,000円
詳細 本紙絖本、竹葉模様絹丸表具
総丈 タテ212㎝ ヨコ41㎝
本紙 タテ142.5㎝ ヨコ28㎝
桐合箱
状態 良好
作家名 柴野碧海
作品名 漢詩二行
「江流萬古情不盡 白鳥雙飛意自閑 碧海□」
略歴 柴野碧海(しばの へきかい) 安永2年(1773)~天保6年(1835)
江戸末期の徳島藩の儒学者。香川の生まれ。号は碧海。名は允升(さねのり)。字は応登・吉甫。
通称は平次郎。柴野栗山の弟貞穀の長男。京都で栗山に学び、その養子となった。天明8年(1788)
栗山が江戸幕府に登用されると、その跡を継いで徳島藩に仕えた。享和元年(1801)国許に移り、
以後藩の学問所で教授しつつ藩主一族の侍講を務め、しばしば江戸藩邸にも勤務している。
詩文に秀でて『枕上集』十巻が現存する。
価格 150,000円
詳細 紙本紙装丸表具 、巻留めに「㞥潱園書屋所蔵」の所蔵票、「近藤氏所蔵」の墨書きアリ。
総丈 タテ185㎝ ヨコ47㎝
本紙 タテ132㎝ ヨコ44.5㎝
桐合箱
状態 オレアリ。
作家名 藤本浄本
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 藤本浄本(ふじもと じょうほん) 明治12年(1879)~昭和46年(1971)
浄土宗の僧。山口の生まれ。号は信蓮社寂誉仰阿。字は専念。明治21年(1888)山口県下田神宮寺
神山得定のもとで得度し、幼名市右衛門を浄本と改めた。同40年(1907)神宮寺に晋董。大正3年
(1914)屋代西蓮寺に転董、同8年(1919)山崎弁栄を招き初老(42歳)記念法会を開いたのが縁で
光明主義に傾倒し、昭和29年(1954)には全国光明連合本部より上首に推任された。総本山知恩院
伝宗伝戒道場勧誡師を勤め、同39年(1964)浄土両宗の合併にともない、改めて正僧正・正司教・
勧学に叙せられた。著書に『阿弥陀仏の信仰』『一枚起請文講話』などがある。
価格 250,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ194㎝ ヨコ43.5㎝
本紙 タテ128㎝ ヨコ32.5㎝
紙元箱
状態 美品
作家名 出所・作家不明
作品名 木版筆彩色 『涅槃図』
略歴 涅槃図
仏教の始祖、釈迦が中インド拘尸那掲羅(くしながら)郊外の跋提河ほとり、沙羅双樹の樹の下の
宝床上で、八十年の偉大な生涯を終え、周囲に集まる多くの弟子や菩薩・鬼神・動物などの深い悲
しみの中で入滅、涅槃に入らんとする情景を描くもので、図中に、涅槃の釈迦を中心に四双八本の
沙羅樹のもと、多数の会衆、動物、さらに画面向かって右上部に、忉利天より急ぎ飛来する仏母摩
耶夫人、仏涅槃を報らせ先導する阿那律、さらに沙羅樹の枝に鉢多羅の包みを描いている。
価格 80,000円
詳細 金襴緞子上表具三段装金具付
総丈 タテ63㎝ ヨコ34㎝
本紙 タテ24㎝ ヨコ27㎝
状態 良好
作家名 大行寺蔵版
作品名 木版画 『佛足石正圖』
略歴 信暁(しんぎょう) 安永3年(1774)~安政5年(1858)
江戸後期の真宗仏光寺派の学僧。美濃不破の生まれ。諱は信暁。号は実解・曇蔵・歓喜庵・円満寺
など。諡は仏心院。美濃の大谷派長源寺に生まれ、同派の僧として得度。京都に遊学中、西本願寺
十九世本如の知遇を得、円満寺の号を許される。文政2年(1819)仏光寺二十三世随応に迎えられ、
山内に明顕寺を再興して入寺。さらに二条秋築町に大行寺を開創、40年学頭に任ぜられる。随応・
随念・真達の三門主の師範を務め、仏光寺派を代表する学僧とされていた。著書には『三帖和讃歓
喜鈔18巻』『教行信証講釈15巻』『山海里36巻』など多数ある。
大行寺蔵版 信暁の洛陽長谷山大行寺什物仏足石寄附奉加記より
価格 120,000円
詳細 絹装に改装
総丈 タテ185㎝ ヨコ70㎝
本紙 タテ108.5㎝ ヨコ54㎝
状態 良好(少一部本紙欠)
作家名 斎藤拙堂
作品名 漢詩五絶二行
「西園曽入画 坡谷共徘佪 隆尉長松勢 清風灑頂来 凌雲花 拙堂□□」
略歴 斎藤拙堂(さいとう せつどう) 寛政9年(1797)~慶応元年(1865)
江戸後期の漢学者。江戸柳原の津藩邸に生まれる。伊勢の津の藩士。名は正謙。字は有終。通称は
徳蔵。号は拙堂・鉄研学人・拙翁。昌平黌に入り、古賀精里に学び、最も力を古文に用いた。
藤堂高兌の藩校有造館を創設するにあたり、抜擢され学職につき、津に移った。高兌の没後高猷の
侍読となり、天保12年(1841)郡宰に任ぜられ、弘化元年(1844)督学となる。諡を文靖先生と
いう。その学は朱子学を奉じたが、諸説を博綜して折衷し、史伝に通じた。
著書には『拙堂文話八巻』『月瀬記勝二巻』『孟子補説十四巻』のほか多数ある。
価格 30,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ197.5㎝ ヨコ39.5㎝
本紙 タテ127.5㎝ ヨコ27.5㎝
状態 少シミ
作家名 出所・作家不明
作品名 多色摺木版画 『毘沙門天像』「福徳自在」
略歴 毘沙門天
仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、
多聞天または北方天とも呼ばれる。また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の
広い地域でも、独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方がある。日本においては、「五穀
豊穣、商売繁盛、家内安全、長命長寿、立身出世」といった、現世利益を授ける七福神の一柱として
信仰されている。
価格 20,000円
詳細 紙本絹装丸表具金具付
総丈 タテ65㎝ ヨコ21㎝
本紙 タテ34.5㎝ ヨコ14㎝
状態 少シワ
作家名 弘法大師御作(印板)
作品名 木版墨摺 『三面大黒天像』
略歴 焼山寺
徳島県名西郡神山町下分字地中にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所第十二番札所。
摩盧山正寿院と号する。本尊は虚空蔵菩薩。
寺伝によれば大宝年間(701年 - 704年)、役行者が開山し、庵を結び蔵王権現を祀った。のちに
弘法大師(空海)は、神通力を持ち火を吐いて村人を襲う大蛇がこの山に棲んでいることを聞き
退治に向かった。大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(水輪)の印を結びながら進むと、
山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願すると大蛇を岩窟の
中に封じ込めることができたため、そのお礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したという。
価格 35,000円
詳細 紙本紙装丸表具、「焼山寺」の朱印あり。
総丈 タテ119㎝ ヨコ39㎝
本紙 タテ66㎝ ヨコ29.5㎝
状態 表具上部虫穴
作家名 長塚節
作品名 自筆草稿複製『佐渡が島』
略歴 長塚節(ながつか たかし) 明治12年(1879)~大正4年(1915年)
歌人・小説家。茨城の生まれ。正岡子規に師事し、伊藤左千夫らと『馬酔木』を創刊。
明治41年(1908)『アララギ』の創刊に参加し同人となる。以後作歌より散文に力を注ぎ紀行文
『佐渡が島』が注目を浴びる。また、長編小説『土』を朝日新聞に連載。万葉集を研究し、子規に
ついて忠実に写生の歌に励み、鋭い観察から生まれる観照の境地に至り独特の声調を残した。
代表作に『羇旅雑詠』『鍼の如く』などがある。
価格 8,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ104.5㎝ ヨコ45.5㎝
本紙 タテ25.5㎝ ヨコ34㎝
桐合箱
状態 良好
作家名 頼聿庵
作品名 漢詩七絶三行
「二十出家以我氷 幾天雲鶴一枯将 和顕弓馬皆餘事 不是風流行脚僧 頼協諭史□□」
略歴 頼聿庵(らい いつあん) 寛政13年(1801)~安政3年(1856)
江戸後期の儒学者。広島の生まれ。名は元協。字は承緒。通称は余一。号は聿庵・春嶂。
頼山陽の長子。山陽が家を出て士籍を除かれたため、文化12年(1815)15歳のとき祖父春水の跡を
継いだ。祖父春水、叔父春風・杏坪に従学して、頼家の学風を紹述した。文政元年(1818)広島藩校
の教授となり諸生を教導した。書に長じ、また詩を善くした。
価格 160,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ203㎝ ヨコ66.5㎝
本紙 タテ145.5㎝ ヨコ52㎝
桐合箱
状態 良好
作家名 山田恵諦
作品名 一行書 「無垢清浄光」
略歴 山田恵諦(やまだ えたい) 明治38年(1895)~平成6年(1994)
天台宗の僧。兵庫の生まれ。幼名は信治。大正9年(1920)天台宗西部大卒。延暦寺・天台宗教学
部長・天台宗勧学院院長を歴任。昭和39年(1964)滋賀院門跡門主。同49年(1974)第二百五十三
世天台座主を嗣いだ。全国青少年教化協議会会長・日本宗教代表者会議名誉議長を務めた。また、
日中天台宗の交流を促進し、天台山、五臺山を訪問した。
著書には『法華経と伝教大師』『慈覚大師』『元三大師』等がある。
「無垢清浄光」…『観音経』(妙法華経観世音菩薩普門品)の一偈。
価格 120,000円
詳細 表具絹本三段装
総丈 タテ201㎝ ヨコ45.5㎝
本紙 タテ118.5㎝ ヨコ33㎝
桐共箱
状態 良好
作家名 末次信正
作品名 一行書 「誠信化人」
略歴 末次信正(すえつぐ のぶまさ) 明治13年(1880)~昭和19年(1944)
明治・昭和前期の海軍軍人。山口の生まれ。海軍大将、艦隊派(軍令派)の代表的人物。
末次操九郎の次男。海軍兵学校・海軍大学校を卒業後、海軍砲術学校第一艦隊司令部・軍令部に
勤務する。また、第一次近衞内閣の内務大臣も務める。日本海軍における戦術の理論家として
知られる。
価格 300,000円
詳細 紙本絹装丸表具、大阪府警察部長、徳島県・福島県知事を務めた荒木義夫の箱書あり。
総丈 タテ195㎝ ヨコ43.5㎝
本紙 タテ121.5㎝ ヨコ32㎝
桐合箱
状態 良好
作家名 宮沢説音
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 宮沢説音(みやざわ せつおん) 文久元年(1861)~昭和3年(1928)
浄土宗の僧。長野の生まれ。号は信蓮社実誉願阿。道号は義精。百万遍知恩寺六十七世。
明治7年(1874)長野県諏訪市上諏訪正願寺の念誉説岸弟子となり、宮沢に改姓する。東京東部
大学林において宗学を究め、温誉大宣より宗戒両脈を相承する。同17年(1884)京都大学林の講授
を任ぜられる。同21年(1888)師籍正願寺、同41年(1908)長崎大音寺に転住し両寺を中興する。
価格 70,000円
詳細 表具絹本三段装、「法光寺五重相傳紀念」の記名あり。
総丈 タテ207.5㎝ ヨコ47.5㎝
本紙 タテ125㎝ ヨコ33㎝
桐合箱
状態 良好
作家名 南条文雄
作品名 漢詩七絶
略歴 南条文雄(なんじょう ぶんゆう) 嘉永2年(1849)~昭和2年(1927)
梵語学者・真宗大谷派の僧。岐阜の生まれ。諱は文雄。幼名は恪丸・僧恪。号は松坡・碩果。諡は
為法院。東本願寺の高倉学寮で修学し、南条神興の養子となり福井憶念寺に入る。明治9年(1876)
東本願寺二十二世大谷光瑩の命で笠原研寿と共にイギリスに留学、オックスフォード大学のマックス
・ミュラー、マクド―ネルに師事サンスクリット(梵語)を学ぶ。同16年(1883)には英訳『大明三
蔵聖教目録』などを出版。著書には『無量寿経梵文和訳支那五訳対照』『梵学講義』『懐旧録』等
多数ある。
価格 80,000円
詳細 絹本絹装丸表具
総丈 タテ202.5㎝ ヨコ54.5㎝
本紙 タテ131㎝ ヨコ41㎝
状態 良好
作家名 無一
作品名 名号 「南無阿弥陀仏」
略歴 無一(むいつ) 寛政元年(1789)~嘉永5年(1852)
浄土宗の僧。号は円蓮社融誉。字は無一。大坂阿弥陀ヶ池和光寺の弁誉について得度。その後、
江戸深川霊巌寺の迎誉貞厳より宗戒両脈を相承。文政7年(1824)三河国貞照院十二世に董住、
同12年入洛し松原西光寺の義聞より大乗円頓菩薩戒を受け、天保2年(1831)跡を至道天然に譲り
京都北野の成等庵に住し、次いで洛西泉谷西寿寺二十五世に董住。
価格 お問い合わせください。
詳細 表具絹本三段装、開眼供養聖阿の裏印あり。
総丈 タテ167㎝ ヨコ41㎝
本紙 タテ102㎝ ヨコ29.5㎝
作家名 堀尾貫務
作品名 『墨梅図』自画賛
略歴 堀尾貫務(ほりお かんむ) 文政11年(1828)~大正10年(1921)
浄土宗の僧。愛知の生まれ。号は綜蓮社安誉住阿。字は一法。天保7年(1836)名古屋白川町寿経寺
の順誉法随について出家得度して、名を貫務と改めた。増上寺の章誉智典より五重・宗戒両脈を
相承。名古屋養蓮寺・寿経寺・養林寺・高岳院を経て、清浄華院六十四世、百万遍知恩寺六十三世、
増上寺七十七世住職となる。大僧正の叙され浄土宗専門学院院長・宗教大学院院長等を歴任。また
社会事業に多大な貢献をした。著書には『選択集十六章図略解』『六時礼讃』がある。
価格 30,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ185㎝ ヨコ45㎝
本紙 タテ127㎝ ヨコ31㎝
状態 極少虫穴
作家名 福田行誡
作品名 漢詩七絶
略歴 福田行誡(ふくだ ぎょうかい) 文化3年(1806)~明治21年(1888)
浄土宗の僧。武蔵の生まれ。号は建蓮社立誉晋阿、字は善奉。諱は大堂のち行誡と改める。
知恩院七十六世、増上寺七十世、浄土宗管長。小石川伝通院伴頭寛淳につき得度。立誉玄順に仕えて
宗余乗をうけ、経史を東条一堂、和歌を一蓮居士、比叡山の慧澄に台律諸部・天台・倶舎を学んだ。
著書には『略論安楽浄土義玄譚私説』『徳本行者伝』『須弥山略記』『釈迦譜要略』等がある。
価格 80,000円
詳細 本紙絖本、丸表具
総丈 タテ175㎝ ヨコ42.5㎝
本紙 タテ130.5㎝ ヨコ34.5㎝
状態 表具少キレ
作家名 伊藤蘭嵎
作品名 漢詩 二行書
略歴 伊藤蘭嵎(いとう らんぐう) 元禄7年(1694)~安永7年(1778)
江戸中期の儒学者。京都の生まれ。名は長堅。字は才蔵。号は蘭嵎・応躔・啓斎。
伊藤仁斎の第五子。享保16年(1731)紀州藩の儒臣となり、藩校に教授した。元文元年(1736)
兄東涯の没後、古義堂に帰って教授すること10年に及んだが、再び和歌山に赴いて藩士弟子を教導
した。諡して紹明先生という。
著書には『書反正二巻』『大学是正一巻』『明詩大観二十巻』『蘭嵎雑記六巻』の他多数ある。
価格 80,000円
詳細 紙本絹装丸表具
総丈 タテ173㎝ ヨコ55㎝
本紙 タテ99.5㎝ ヨコ39㎝
状態 良好
作家名 大内青巒
作品名 『蘭図』自画賛
略歴 大内青巒(おおうち せいらん) 弘化2年(1845)~大正7年(1918)
仏教思想家。宮城の生まれ。諱は泥牛。通称は青巒。道号は巻之、号は藹翁・藹々居士・露堂。
曹洞宗照庵のもとで得度。原坦山、福田行誡に仏教を学ぶ。島地黙雷らの勧めで西本願寺21世大谷
光尊の侍講となる。『明教新誌』『江湖新聞』などを発刊。尊皇奉仏大同団・曹洞宗扶宗会などの
結成を通じて、仏教の大衆化、社会福祉、教育活動に尽くした。また曹洞宗布教の根本聖典とされる
『修証義』の原型を作る。著書には『修証義講話』『普勧坐禅儀詮要』『般若心経講話』等がある。
価格 20,000円
詳細 紙本紙装丸表具
総丈 タテ190㎝ ヨコ25㎝
本紙 タテ139.5㎝ ヨコ17㎝
状態 良好
作家名 五井蘭洲
作品名 一行書 『清晨漱歯渉寒流』
略歴 五井蘭洲(ごい らんしゅう) 元禄10年(1697)~宝暦12年(1762)
江戸中期の儒学者・国学者。大阪の生まれ。名は純禎。字は子祥。別号に冽庵・梅塢がある。
通称は藤九郎。五井持軒の子。中井甃庵に招かれて懐徳書院の助教となった。学は父持軒に受け、
もっぱら程朱を宗とした。かねて国書もよくし、甃庵の二子中井竹山・履軒兄弟も彼に従学。
懐徳堂の学風を確立した。著書に『非伊篇』『中庸首章解』『勢語通』『鶏肋篇』のほか多数ある。
「清晨漱歯渉寒流」の句は、御定全唐詩(四庫全書本)巻586にあり。
価格 250,000円
詳細 元表具 牡丹鳳凰紋緞子絹三段装
総丈 タテ186.5㎝ ヨコ25.5㎝
本紙 タテ127㎝ ヨコ23.5㎝
桐合箱
状態 少シミ・極少虫穴
作家名 大森禅戒
作品名 梵字 二行書
略歴 大森禅戒(おおもり ぜんかい) 明治4年(1871)~昭和22年(1947)
曹洞宗の僧。福井の生まれ。勅号は活龍禅戒禅師。曹洞宗第十七代管長、永平寺第七十世貫首。
総持寺第十一世貫首、駒澤大学第九代学長。台雲寺の大森董戒について得度。明治29年(1896)~
同32年(1900)まで宗門留学生として比叡山及び高野山奈良東大寺勧学院に留学して華厳天台真言
等の教理を修めた。曹洞宗大学々監教授、曹洞宗師家、永平寺管長等を歴任。石川県湯涌谷(白雲
桜)康楽寺初代住職となり、以後慈照寺に在って静養した。師が畢生の事業として編輯中の梵語辞
典は未だ上梓に至らなかった。
価格 70,000円
詳細 総丈 タテ203㎝ ヨコ45.5㎝
本紙 タテ140.5㎝ ヨコ33.5㎝
桐合箱
状態 少虫穴・少シミ
作家名 本多日生
作品名 法華曼荼羅
略歴 本多日生(ほんだ にっしょう) 慶応3年(1867)~昭和6年(1931)
顕本法華宗の僧。妙満寺第259世。兵庫の生まれ。幼名は長次。諱は日生。字は聖応。号は聖応院。
姫路藩士国友堅次郎の次男。本多日鏡・児玉日容に師事する。24歳で妙満寺派の教務部長となるが、
その急進さの余り宗門追放となる。のち復帰し、明治38年(1905)管長となり、以後21年間宗門
統制・布教伝道・社会教化に尽力。また、法華経中心の釈迦本尊論を唱えて独特な本多教学を構築
し、田中智学とともに近代日蓮宗教団に大きな影響を及ぼした。
著書には『大蔵経要義』『法華経講義』『日蓮聖人訓要義』等がある。開眼法要裏書あり。
価格 150,000円
詳細 総丈 タテ146.5㎝ ヨコ45.5㎝
絹本 タテ52㎝ ヨコ34.5㎝
状態 極少シミ
作家名 川路聖謨
作品名 和歌『元吉事甲之輔』
略歴 川路聖謨(かわじ としあきら) 享和元年(1801)~慶応4年(1868)
江戸末期の勘定奉行。大分の生まれ。名は聖謨。通称は弥吉、三左衛門、叙爵して左衛門尉。
号は敬斎・頑民斎。父は日田代官所内藤吉兵衛歳由。12歳で小普請組川路三左衛門光房の養子と
なる。勘定吟味役・佐渡奉行・奈良奉行や大阪町奉行等を歴任。聖謨は平素文筆に親しんで多くの
遺著を残し露使と応接した『長崎日記』『下田日記』、京都に使いした『京都日記』『京日記』
および晩年の日記は『川路聖謨文書』全八巻に収められている。下町奉行・外国奉行等を歴任、
外交の第一線で活躍した井上清直は聖謨の実弟である。
価格 120,000円
詳細 総丈 タテ121.5㎝ ヨコ53㎝
本紙 タテ32㎝ ヨコ41㎝
桐合箱
状態 良好
作家名 法道
作品名 『阿ら玉の和歌』
略歴 法道(ほうどう) 文化元年(1804)~文久3年(1863)
江戸後期の浄土宗の僧。山口の生まれ。号は徳蓮社元譽信阿。字は円如・蓮庵と称した。
文化9年(1812)萩功蓮社で法岸が別時念仏していたとき法岸にのぞまれ、法洲の弟子となり得度を
受けた。増上寺の弁信寮に入り宗乗を究め、増上寺主空誉舜従から五重・宗戒を相承。
文政7年(1824)法洲の命により大日比西円寺に董住、本堂・庫裡の新改築および境内の整備に
着手。天保6年(1835)には『十勝論』の校合と布薩相伝のために上洛し、三月知恩院聴誉説行より
布薩戒を相承した。
価格 120,000円
詳細 総丈 タテ194㎝ ヨコ39.5㎝
本紙 タテ129㎝ ヨコ29㎝
桐合箱
状態 表具少虫穴
作家名 藤堂俊章
作品名 漢詩五絶
略歴 藤堂俊章(とうどう しゅんしょう) 大正3年(1914)~平成9年(1997)
浄土宗の僧。京都浩徳院の生まれ。号は感蓮社応誉光阿水月。大本山善導寺第六十五世。
五重・授戒をはじめとする布教の大家。昭和8年(1933)知恩院にて宗戒両派を相承。三上人大遠忌
を奉修、諸堂宇の大修築を円成し、開墓八百年慶讃・平成大修築落慶大法要を厳修した。その他、
法務省人権擁護委員・光明修養会参与・同顧問、民事・家事両町両停委員等を歴任した。
著書に『光明主義入門』『五重勧誡』『人生と宗教』等がある。
価格 60,000円
詳細 総丈 タテ202.5㎝ ヨコ48.5㎝
本紙 タテ139㎝ ヨコ35㎝
桐共箱
状態 良好
作家名 明誉古磵
作品名 『寿老人図』
略歴 明誉古磵(みょうよ こかん) 承応2年(1653)~享保2年(1717)
江戸中・後期の浄土宗の画僧。僧名は、證蓮社明誉虚舟古磵。初め大和郡山の西岸寺に住し、のち
上洛して鳴虎の報恩寺に晋董した。古磵は宗乗を学ぶ傍ら、画法を狩野永納にうける。また雪舟の
画法を慕い、人物・山水をよくし、大黒天像を得意とした。また『続近世畸人傳』では、近江の高
田敬輔も学んだと伝えている。代表的な作品としては、「大仏殿虹梁木曳図」「薬師寺縁起絵巻」、
泉涌寺の涅槃図の大作が残されている。また、『浄土十六祖図伝』『円光大師贈号絵詞伝』等の押
し絵の作品が残されている。
価格 157,000円
詳細 総丈 タテ119㎝ ヨコ58.5㎝
本紙 タテ31.5㎝ ヨコ45㎝
桐合箱
状態 表具少虫・少イタミ